本会の受諾と契約書の認可 本会が「横浜一般病院」から要請を受けた1935年(昭和10年)の横浜は、東京大司教区のシャンボン大司教の指導下にありました。この要請についてM.ピエ-ルから相談を受けたシャンボン大司教は、産業貿…
FMM日本管区の歩み-66
【新しい呼びかけに応えて ‐ 横浜修道院の創設 】 横浜一般病院からの要請 管区が総…
FMM日本管区の歩み-65
修練院の麹町移転-② 1935年(昭和10年)4月23日、最後のグル-プが麹町に到着して全員が揃うと、フランシスコ会司祭の手によって初ミサが捧げられました。そして、ベルギ-人の副管区長M.マグダラ、スイス人の修練長M.デ…
FMM日本管区の歩み-64
修練院の麹町移転-① 1934年(昭和9年)12月、実際、修練院にいる7名のノビスとポスチュラントのほかに8名のアスピラントが病院や養老院で働きながら入会の日を待っていたため、どうしても大きな家が必要になり、この有期誓願…
FMM日本管区の歩み-63
「オブラ-ト」修練院の閉鎖と正式入会-② 1925年 (大正14年) 11月7日にオブラ-トの修練院が札幌に開設されて以来、 1933年(昭和8年)の閉鎖までの8年間に、12名のオブラ-トが修練長のM.ステル・デル・ゼの…
FMM日本管区の歩み-62
「オブラ-ト」修練院の閉鎖と正式入会-① 会長は、日本人のメンタリティに合わなくなった「オブラ-ト」の修練院を閉鎖し、オブラ-トが正規の会員として入会できるように申請書を同聖省に提出しました。それには次の理由が書かれてい…
FMM日本管区の歩み-61
修練院の東京移転 「日本の殉教者の聖母管区」の新設と時代の動きに従い、熊本と札幌の修練院を統合する必要が生じてきたために、熊本の修練院は東京へ移転し、札幌のオブラ-ト修練院は閉鎖されることになりました。会長のM.マルグリ…
FMM日本管区の歩み-60
熊本に開設された日本最初の修練院-② 1911年(明治44年)のス-ル修練院開設以来、16歳から27歳までのプロバニストが少なくとも20名はいましたが、この指針が出されてからアグレジェとして残る者が増える一方、入会者は …
FMM日本管区の歩み-59
熊本に開設された日本最初の修練院-① 本会の来日から最初の修練院開設まで、日本のFMMは長い道のりを歩んできました。 1900年(明治33年)コ-ル師、有安師、深堀師の紹介で長崎の旧信者の家庭から10代の少女と…
FMM日本管区の歩み-58
管区評議会と院内評議会の設置-② 1934年~1938年の間に16回の管区評議会が開かれていますが、当時の日本とフィリピン間の交通事情を考えると、両国で毎月2回開かれる評議会に参加するのは容易ではありませんでした。当時、…