コインバトゥール教区のバルドー教皇代理司教は、オータカムンドのニルジリ山に養護施設および英語とタミール語のための2つの学校を開くことを強く望まれ、レパラトリス会に依頼されました。総長メールマリ・ド・ジェスは、この願いを聞きいれ、インドに連絡しましたので、1875年の初め、マリ・ド・ラ・パシオンは、オータカムンドを訪れました。「なんという貧しさ!1つのチャペルと1つの部屋しかありません。椅子も食器もないのです」と彼女は書いています。
彼女がオータカムンドに滞在中に、マドュレの状況は悪化していきました。本来観想的修道会であったレパラトリスのシスターたちが、宣教地において使徒的活動をする上で体験する種々の複雑な問題、インドのシスターたちの修道生活への養成、民間の権威者と、教会の権威者・司教・司祭との関係、何よりもインドとヨーロッパ間の通信に長い日時を要することがからみ合って、誤解と不信感が生じ、閉鎖的なミッションの空気の中で事態は誇張してローマに伝えられていきました。総長は事態の好転を望んでか、管区長の更迭を考え、マリ・ド・ラ・パシオンに手紙を書いて、マドュレの管区長職が終わったことを知らせ、同時に彼女をオータカムンドの修道院長に任命しました。総長の命令を受けたマリ・ド・ラ・パシオンは、新しい管区長に従順と協力をする手紙を書いています。
ところがマドュレの共同体では全く違うことが起こっていました。そこでは、マリ・ド・ラ・パシオンに感謝と敬愛の心をもっている大部分のシスターたちが、この決定は前管区長の働きへの断罪に等しいと感じ、総長にこの決定を考え直すように嘆願の手紙を書きました。そこで総長は、本部評議員のひとりをインドに派遣して、必要ならどのような方法を使ってもよいから、ミッションの実状を調べるように命じました。けれどもコミュニケーションが出来ず、対話は行われませんでした。公式訪問者は到着するとすぐ、会員にマリ・ド・ラ・パシオンと管区評議員をこの緊張状態の責任者と認めるか、それとも、レパラトリス会を退会するかどちらかを選ぶように求めました。
シスターたちは、苦しみ、祈り、話し合い、マドュレの宣教に関係のない司教の意見を求めたりしました。遂に、トリチノポリの院長マリ・ド・サンテスプリが決断して、公式訪問のシスターが出した条件を良心的に受け入れることは出来ないことを伝えて会を立ち去り、時を同じくして、マドュレの3つの修道院の多くのシスターたちが同じ決定を自ら下したのです。彼女たちは今後、レパラトリス会から離れるという苦しみが待っていることを自覚していましたが、良心に逆らうことは出来なかったのです。それでも何らかの方法で修道生活を続け、宣教者でありたいと強く望んでいました。こうして、オータカムンドのマリ・ド・ラ・パシオンのもとに19名のシスターが集まりました。
コインバトゥール教区のバルドー司教は、パリ外国宣教会の会員で、レパラトリスを去った20名のシスターたちをその保護のもとに置かれました。その数はインドにいたレパラトリスのシスターの3分の2以上を占めていたのです。最初の2・3か月を人々の疑惑と反対の中で過ごすうちに、司教もマリ・ド・ラ・パシオンも、彼女たちが自らローマに行き、その将来について教皇と布教聖省に裁可を委ねる以外に方法はないと判断しました。
1876年11月21日、マリ・ド・ラ・パシオンは3人のシスターを同伴し、マドラスで乗船するためオータカムンドを後にしました。別れに際し、インドに残っているシスター全員に、自分たちを苦しめた人々の名を決して口にせず、沈黙を守るように願いました。たまたまインドを訪れていたマリ・ド・サント・ヴェロニックの兄弟ポールとアルベール・ド・ギネ氏も同行しました。一行はクリスマス前にローマに着き、マリ・ド・サンテスプリの両親エルスヴィル伯夫妻に再会しました。元教皇庁の戦士というポール・ド・ギネの身分のおかげで、12月31日、教皇ピオ9世に謁見することが出来たのです。ギネ兄弟は、教皇にオータカムンドから来た宣教修道女たちの問題を説明して、彼女たちが修道者として生きていくことを望んでいる旨を伝えました。
教皇は「彼女たちに私が祝福を送ると伝えてください。
布教聖省長官に会いに行き、私が、このことについて調べてほしいと願っているとお話しなさい」と言われました。問題の件は、すでにローマの教皇の側近にまで波紋を投げかけていました。しかし、事件の真相によく通じているエルスヴィル伯やギネ兄弟のような信徒の紹介は効果的で早速実を結んだのです。