社団法人「マリア奉仕会」の組織化
北広島を含む札幌と東京の事業は、FMMの社団法人「マリア奉仕会」のもとに置かれていた熊本と人吉の事業とは異なり、開設と同時に登記された「大日本天主公教宣教師団」のもとで、キノルド司教とシャンボン大司教の力強い支持を受けながら外国籍の姉妹たちによって運営されてきました。ところが、日本が1931年(昭和6年)の満州事変をきっかけに軍国主義による超国家体制へ傾斜していくのを見て、シャンボン大司教とキノルド司教は教会の財産が没収される危険を感じ、管区長のM.ピエ-ルにこれらの事業を「宣教師団」から切り離して、FMMの社団法人へ移すように勧めました。この法的手続きの依頼に応じたのが「軍服姿の修道士」と言われるほど信仰厚いフランシスコ会第三会員の山本信次郎海軍少将でした。秘書の赤羽氏は、札幌と東京を何度も往復しながら1936年(昭和11年)に困難な法的手続きを終了し、1939年(昭和14年)には管区の全事業がFMMの「マリア奉仕会」に登記され、東京を本部事務所として、熊本、人吉、札幌、北広島の各修道院に支部が設置されました。
この流れの中で、管区長は事業が閉鎖される事態を避けるために、事業の不備と運営管理に必要な「日本国籍のFMMの人材不足」という2つの問題解決に奔走し、豊かな経験と広い視野をもって時代の動きを敏感にとらえる管区長のリ-ダ-シップによって、解決への道を開いていきました。近代化については、当時の社会自体が近代化路線にあったことが突破口になりました。1937年(昭和12年)、政府は 内務省が社会事業行政として施行した「社会事業法」により、社会事業団体や施設に補助金を支給して近代化を奨励しました。しかし、その目的は「社会事業の近代化に伴い、経済恐慌の余波で経営難に陥る公私社会事業団体や施設に対して指導監督を強化すること」にありました。幸いにも管区は善意の人たちの寄付のおかげで、政府から「時代遅れを理由に」排除されることもなく、また補助金を受けながら過度に干渉されることもなく、事業の近代化を進めていくことができました。
しかし、日本国籍のFMMの人材不足については、特に日本人の会員が皆無に等しかった札幌と東京の修道院にとって深刻な問題でした。事業で働く日本人の女性はいましたが、管理職に日本人のFMMがいなかったために、役所や警察との関係、書類の提出、会計などの重要な仕事までもこれらの女性に頼らざるを得ず、実際に問題が起きていたからです。このような問題も、1934年(昭和9年)には有期誓願宣立後に事業へ戻って来た12名の元オブラ-トの存在が解決の糸口となり、続いて修練院を巣立つ若い日本人の誕生によって 徐々に解決されていきました。