軍部の思想統制に対して日本の教会が選んだ道ー①
M.ピエ-ルが首都の東京に管区館をおき、横浜修道院の創設、正規修練院の確立、事業の近代化を実現させた1930年代は、日本の社会変動に伴い教会が存続の危機に遭遇していた時代でした。満州事変勃発前後から顕著となった軍部のキリスト教への圧力は、長年の軍部内の派閥抗争の表面化で青年将校が起こした1936年(昭和11年)の2・26事件前後から極端になり、政府もマスコミ関係者も外国人の宣教師や修道者をスパイ視したのです。これに対して、当時日本天主公教教団総務院の責任者であった田口芳五郎師は「日本カトリック攻勢」の中でこう反論しています。
日本で宣教活動に従事している外国人の宣教師や修道者の国籍は殆んど万国に及んでいるが カトリック教会の宣教者と修道者に限り、新聞や雑誌が書き立てているような帝国主義の 手先とかスパイということは決してない。 彼らは自分の愛する母国や家族を離れて 終始一貫して独身を守り、自分の信じる宗教を 弘布しているだけである。 前の教皇ベネディクト15世も現教皇ピオ11世も、この点に厳重な注意を促している。万一 こうした不真面目な宣教師がいれば、彼らは聖座のみならず監督教区長により、 必ず厳罰に 処せられなければならない。
その一方で、軍部は本来の神道とは異なる国家神道を持ち上げ、国をあげて軍国主義・帝国主義へと国民を駆り立て、日本人信徒を「天皇を神と認めず、神社参拝をせず、神事に参列しない非国民」とみなし、厳しい弾圧を加えました。これは昔からキリスト教徒を苦しめてきた問題でした。布教聖省はこの重大問題のあらゆる局面を注意深く考察しました。つまり、時と習慣の推移に心を配り、1890年(明治23年)の司教会議で表明された要望を十分協議し、駐日ロ-マ教皇庁使節マレラ大司教とシャンボン東京大司教が「神社参拝は愛国心によるものであって信仰行為ではない」との政府の返答を受け、司教団、学識豊かな司祭・信徒と共に研究した結果に基づき「自国におけるカトリック信徒の義務」について総括的な指針を発表しました。
それによると・・・
・政府の管理下にある神社での儀礼は、愛国心、つまり皇室に対する尊敬と 国家の恩人(戦没者)に対する敬意の意味しかないと政府が明確に宣言している ので、信徒は他の市民と同様これに参加することができる。
・一般に行われている種々の儀礼(葬儀、結婚式など)の際、それが非キリスト 教的宗教に由来するものであっても、社会的儀礼にすぎないので、信徒もこれに 参加できると決定されている。