札幌の共同体から独立した北広島修道院
1934年(昭和9年)、これまで札幌修道院に属していた北広島の共同体が分離独立し、オブラ-ト修練院の閉鎖で修練院長職から解放されたM.ステル・デル・ゼを初代院長とする正規の修道院になりました。この時、通学のため札幌の天使園に残されていた児童の全員が北広島へ移されました。その当時、フランス人のM.テクラが病院の患者や孤児の世話に当たり、2名のアグレジェが3名の共同体を助けていました。北広島修道院の独立は経済的にも自立を意味していますが、唯一の収入源として期待されていた北広島天使病院の経営は常に赤字状態にありました。千歳線の開通により村人が容易に札幌の病院に行けるようになったため患者数が減少したこと、患者の大部分が無料で治療を受ける貧しい人たちであったこと、その上ドクタ-には高額な給料を払わなければならないことなどがその主な理由です。さらに悪いことには、世界情勢の悪化で海外からの寄付金もサンタンファンス(世界児童福祉会)の補助金も入手困難になっていました。「サンタンファンス」というのは1843年に児童の福祉と教育を目的にフランスで創設された会で、現在はロ-マ教皇庁におかれています。日本の施設も長い間その恩恵に与ってきました。また、島松の診療所の方もこれまでのように派遣するシスタ-がいなくなり、継続が危ぶまれました。このような無収入に等しい中で、3名程の入院患者と55名の子どもの世話をするという厳しい条件のもとに、苦労の多い不安な生活が始まったのです。こうした悪条件にあっても、管区長は「この修院の保護者である暁の星の聖マリアが、既にこの地に蒔かれた福音の種を実らせ、光を求める人々を導くために愛と平和を芽生えさせてくださる」と確信しつつ組織化に取り組み、人材の補強、ロ-マ本部から畑地と家畜を買う資金の援助、そしてキノルド司教から受けた多額の寄付金と土地・建物の提供などにより、事態は徐々に改善されていきました。
1935年(昭和10年)には75名収容の養護施設がキノルド司教によって祝別され、正式に「天使の園」と命名されました。病院の建物に併設されている修道院には10名の会員と3名のアグレジェが住み、事業や畑の仕事で犠牲の多い生活を送っていました。キノルド司教が共同体のために購入した畑地が本格的に農業を営める程広かったので、共同体は感謝をこめて早速その土地の開墾と耕作を始めました。
1937年(昭和12年)、M.ステル・デル・ゼが札幌の院長に任命されて北広島を去る年には、これまで小さな共同体が払ってきた大きな犠牲が実りはじめ、貧しいながらも自立した修道院として共同体生活と事業の面で飛躍への兆しが見え始めました。その矢先に1939年(昭和14年)3月28日午後3時、子どもの火遊びから天使の園に火災が発生。強風にあおられて火はたちまち木造の家を炎で包み、病院や教会方面まで勢いよく燃え広がろうとしていました。井戸は遠すぎて役に立ちませんでした。それにもかかわらず、乳幼児も児童も怪我一つせずに全員が救出されただけでなく、類焼さえも免れることが出来たのは奇跡的なことでした。姉妹たちの機敏さと役場で行われていた葬儀の参列中にサイレンを聞いてかけつけた30名近い男性の善意、井戸水が使えないパニック状態の時に急に降り出した雪、類焼の寸前で向きを変えた強風、すべてが「天の助け」となったのです。病院と教会は類焼を免れ、家を失った子どもたちの生活の場として残されました。消失した施設もわずか3か月後には、役所、福祉関係機関、教会関係者など各方面からの資金援助で新しい家が落成しました。この出来事をきっかけに広島天使病院は事実上閉鎖され、「天使の園」養護施設が北広島修道院の主要な事業となりました。