マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-74

熊本と人吉における事業の近代化-① 

1927年 (昭和2年)熊本と人吉の共同体は新しい時代を迎えました。この年に、創設以来長崎教区に属していた熊本と人吉の共同体が、新設された福岡教区の管轄下におかれ、これらの共同体の事業のために社団法人「マリアの奉仕会」の設立を申請したからです。この申請は2年後に認可され、熊本と人吉の事業は 社会的に新局面を迎えると同時に 新しい活力も受けるようになりました。

特に「待労院」は1930年(昭和5年)以来、貞明皇后の基金と財界人の協力のもとに、ライの予防と社会一般のライ患者に対する偏見をなくすことを目的に設立された「ライ予防協会」の活動から大きな恩典を受けてきました。その活動は患者の生活改善にとどまらず、精神的に大きな慰めと希望を与えてきたのです。このような変動期に福岡教区を率いていたアルベルト・ブルトン司教は、管区の宣教活動と事業の近代化に関心をもち、新しい時代の問題に直面している共同体を支援しました。当初、待労院の周囲には殆ど人家がなく、患者が囲いのない畑や庭で生活していても問題になりませんでした。ところが時代の変遷に伴い、周囲には沢山の家が立ち並び、近隣の人たちがフェンスのない待労院の患者の様子を見て苦情を言い出し始めました。それが「待労院の撤去」をめぐって熊本市議会を動かすほどの問題に発展したことに加え、創設当初より35年間踏襲されてきた規則、習慣、慣例に縛られて生活してきた患者たちが、自由と自治を求めて抗議したことです。待労院にはこれらの問題を解決する資金も手段もありませんでした。

そのような時に、思いがけなく良き協力者が現われ、予想もしなかった出来事が起きて解決の道が開かれていったのです。市議会に対しては、待労院の生活をよく知っていた医師の内田守氏の説得があり、フェンスについては静岡の復生病院院長岩下壮一師の「最新式消毒器とフェンス」設置の忠告がありました。とは言え、フェンスの設置さえ当時の経済状態では不可能という時に、摂理的にも天皇陛下が陸軍特別大演習のために熊本に来られることになり、待労院がその通り道に近いことから熊本県がフェンスを設置せざるを得なくなったことで一件落着しました。患者の抗議についてもカトリック新聞がこれを記事に取り上げたことがきっかけで、この新聞社から精神的財政的支援を受けることになり、待労院当局の快諾を得て患者の自治会が結成されたことで建設的に解決されたのです。その上、新聞の呼びかけがきっかけとなって国内からも寄付が寄せられるようになりました。