マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-75

熊本と人吉における事業の近代化-②

このような状況の中で、管区長は患者への土産にフィリピンから楽器を持ち帰って、患者の心を和ませました。誰もが「人間らしい生活を送れるように」心を配りながら事業の近代化に務め、老朽化して不衛生になった建物を修復し、生活環境を整え、生活の質を向上させることに専念しました。多額の借金をかかえて常習的な資金不足に悩まされながらも、改善計画を実行に移していきますが、皇室からの御下賜金、財閥からの寄付金、県庁からの補助金など、またも思いがけない資金援助を受け、娯楽室、作業室、園芸室が新築されました。待労院だけでなく、病人をかかえた貧困家庭の多い中尾丸診療所の増改築にも乗り出しました。ここは「パリ周辺の貧民窟のような非常に悲惨な所で、人々は飢え死に、子どもたちは裸同然の姿でうろつき回っている」と管区ニュ-スが伝えているように、会が最も優先すべき惨めな地域でした。琵琶崎から建物の一部を運び、そこに薬局、診察室、治療室、待合室を増設し、1934年(昭和9年)には「花園慈恵院」の名のもとに再出発させたのです。このような摂理的な発展について管区長は次のように報告しています。

たとえ修道院が借金しなければならなかったとしても、神様は常に目に見える形で      ご自分の大切な事業に祝福を与えてくださいました。世界的な財政難にもかかわらず     ライ患者には何一つ不足なものはありません。み摂理が必要を満たしてくださった      のです。ライ患者の友である聖フランシスコが彼らの家を見守ってくださっています。

1935年(昭和10年)には、古くて不衛生な子どもの施設とベビーホームが改築されました。その後、6歳以上の男の子は宮崎のサレジオ会施設へ、ライ患者の子は御殿場にある岩下師の「復生院」へ移されることになりました。

この年、共同体にとっても記念すべきことがありました。洋風の美しい聖堂が完成したことです。これまで聖堂は修院内の一室に設けられていましたが、新聖堂は修道院に隣接した大きな建物になりました。「日本26聖人殉教者の教会」と名付けられたこの聖堂は、手取小教区の司牧活動を補佐し、地域の福音宣教を目的に一般信徒にも開放されました。それまでの37年間、姉妹たちが地道な愛の福祉活動によって徐々に地域住民の心に根を下ろし、宣教の成果を上げてきたことは福岡教区報が物語っています。それによると、1898年(明治31年)の修道院創設当初、この地域には2~3家族の信徒しかいませんでしたが、37年後には248名の信徒が住み、毎年平均20名の受洗者が出ています。この塔の先端に高く聳える十字架、小高い丘から鳴り渡るアンジェラスの鐘、終日顕示された聖体の前で礼拝するFMMの姿は、軍国主義の暗い時代を迎える信者にとって「希望と勇気のしるし」となりました。

他方、人吉では、唯一のカトリック教会と修道院が一致して町の宣教活動に献身してきたにもかかわらず、1906年(明治39年)の修道院創設当初45名の信徒数は、30年過ぎても僅か100名位しか増加しませんでした。仏教と神道の強いこの土地で公に宣教することは至難のわざでした。それでも共同体は、診療所、授産所、幼稚園、孤児院、老人施設など愛の事業を通して多くの人に福音を伝えていたのです。どの事業も創設当初の古い建物は老朽化し狭くなっていたのですが、管区長は財政困難から最も貧しい乳児と病人を優先させ、1930年代に乳児院の改築と診療所の新築を行いました。これにより乳児院は「愛児園」として正式に国の許可を得て開設され、東京と熊本からも子どもたちが送られてくるようになりました。小さい診療所の「復生院」もレンガ建ての近代設備を整えて再出発しました。また方々に散らばって不自由な生活を強いられてきたアグレジェの住まいも、修道院に連結した新しい建物になりました。当時、常に20名~30名の若い女性が授産所(アトリエ)で働き、10名ほどの主婦が家で内職をしていました。コ-ル師の遺産で継続されてきたカテキスタ以外の事業は、どれも県や町の補助金と教会や宣教師たちの寄付で賄われていました。