札幌地域における事業の組織化
札幌地域も熊本地域同様、創立当初の小さな愛の奉仕活動の分野が次第に広がり、北広島と島松まで伸びていきました。関東大震災、世界恐慌、凶作などで大打撃を受けた貧困者に「生きる道」を開いていくうちに、1930年代には2つの病院、2つの診療所、子どもの施設、印刷・授産室(アトリエ)、そして看護婦養成所にまで発展しました。貧しい人には無料で医療奉仕し、身寄りのない子どもを保護収容し、職のない女性や障害者に職を与え、看護職を目指す人には資格を取得させ、共同体は常にフランシスコの小さき兄弟たちの協力と指示のもとに福音を伝えてきました。人々が「フランシスコ村」と呼んでいたこの地域一帯に、札幌のみならず北海道の各地からも人々が救いを求めて来ていました。しかし、これらの事業にも次第に近代化の波が押し寄せてきたのです。管区長が限られた敷地と老朽化した建物に雑居している事業の中で最優先させたことは、修院の一室にあった印刷・授産室と北広島へ移転した養護施設の組織化でした。
札幌の印刷・授産室は、1927年(昭和2年)にフランシスコ会の出版事業「光明社」の印刷部門を引き受けて修道院内の作業室で慎ましく始められた「光明社の姉妹事業」です。1930年代になると、教会関係のみならず地域社会や学校関係から高く評価されて注文が殺到したため、人材や設備の増強と印刷所の新築が必要になってきました。1934年(昭和9年)、管区長は先ず印刷部のために新しい家を建て、元オブラ-ト修練院の家を利用して製本部を作り、待望の「天使院印刷所」を実現させました。人材面では、ケベックの近代的な印刷所で働いた経験のあるマリ・ド・サン・フィレアス(Marie de St. Phileas)がフィリピンから派遣され、印刷所の創始者であるM.ウスタ-ズの片腕として働くことになりました。さらに印刷部には2名の日本人シスタ-と2名のアグレジェ、植字をする8名の女性、機械を操作する3名の男性、製本部には外国人シスタ-とアグレジェの各1名と数名の若い女性が配置され、かつての小さな印刷室が大きな機械と設備を備えた「カトリック印刷所」にまで発展したのです。これを見ても、マリ・ド・ラ・パシオンが福音宣教のために重視していた印刷事業に、管区長がどれ程多大なエネルギ-を注いだかが分かります。この印刷所は障害者も雇われていたことから「授産所」とも呼ばれました。