長年幼児教育に携わってきた中で、特にモンテッソーリ教育を通して体験したこと、学んだことを保育園の先生方に分かち合う機会をいただきました。
私がノビシアを出たころ(50年以上も前)はモンテッソーリ教育が台頭してきた頃で、あちこちで研修会が行われておりました。その頃「九州幼児教育センター」が設立され、私はその1年間のコースに参加しました。
コースの教育理念は「いのちに触れる教育」でした。私はそのタイトルにとても心惹かれながら、「いのちに触れるって何だろう?」と思っていました。そんな中ある講話で「大人と子供の関係」があって、「本当に子どものいのちに触れた時、大人が変わる。まず大人が変わることが大切だ」と言われましたがすぐには理解できませんでした。
「子供がお仕事に集中する」ということがテーマで話し合われた時、「集中とは相手や物事に徹底的に関わること。その関わりはすなわち『愛』である」という言葉に出会い、ずっと考え続けていました。
福岡の幼稚園でのことです。園庭に小鳥小屋があり、インコと十姉妹の2種類の小鳥が飼われていました。ある日主任のシスターがこの2種類の小鳥を分けたいというのです。小鳥は夜になると目が見えなくなるから暗くなってから分けに行こうというのです。修道院と幼稚園は結構離れていて夜は真っ暗。私は夜になってから幼稚園に行くなんて、まして小鳥小屋に入るなんて、本当はイヤでしたので、しぶしぶついて行きました。
小鳥小屋に入ったとたん、案の定小鳥はばたばた大騒ぎ。それを1羽ずつ捕まえていくのです。はじめの1羽を捕まえたとき私はハッとしました。私の手の中の小鳥の激しい鼓動を聞いたのです。私はとっさに「ごめんね」「ごめんね」と言っていました。小鳥がかわいそうで涙ぐみそうになりました。
すべての仕事が終わったあと、「・・・私は変わった・・・小鳥の命に触れたことによって・・・」と感じていました。行く時は不平いっぱいだったのに、帰りには小鳥に対して「ごめんね」という優しい気持ち、申し訳ない気持ちになっていました。小鳥の命に触れて変えられた自分にびっくりしました。いのちに触れるってこういうことなんだ、と本当に実感した瞬間でした。50年以上も前のことですが私にとって忘れることのできない体験です。
「いのちに触れる」というキーワードは私にとって実際のいのち、ものごと、出来事に触れると同時に、みことばに触れる、ということでもありました。聖書の中に「みことばは人となり、私たちのうちに住まわれた。」とあります。目に見えない神様が目に見えるいのちとなって私たちのこの世界の中に来てくださったのです。
いのちの源は神様です。すべてのいのちは神様からきます。すべての中に宿る「いのち」に触れる時、私たちは「神様に触れる」と言っても良いのではないでしょうか。
毎日子供たちに囲まれている先生たちはたくさんの機会に恵まれていますね。その中でハッと気づかされることがあると思います。それが何ものにも替えがたい喜びでありお恵みです。(Sr.O.I.)