マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-94

第二次世界大戦下における教会と本会の対応-③

世界を舞台にした激しい戦争の中、平和を訴える教皇と天皇の努力が継続されていきました。日本管区は、当時ロ-マの本部で会長の私的秘書を務めていたM.ネリア(村田敏子)の手紙で、ロ-マの様子を知ることができました。1944年4月29日の手紙には、教皇ピオ12世が自ら一日に7,000人以上の難民に食料を配給するなど数えきれない程の慈善を行い、精力的に救助活動に奔走している様子や、10年前に駐日ロ-マ教皇庁使節を務めたことのあるジャルディ-ニ大司教がヴィア・ジュスティで司式するミサに、元東京神学院の校長カンドウ師や原田全権大使夫妻など、ロ-マ在住の日本人が集まる様子が伝えられています。

会長のM.マルグリットは、本会が第一次世界大戦の時に国際宣教修道会として非常に苦しい体験をしてきた事を思い出していました。特に世界中に広がる管区の共同体とロ-マ本部の共同体との連絡不足や交信不能は、本会に多大な損失を招いたのです。本会の記録によると、第一次世界大戦中に交信不能のため本会を離れた会員は300名近くに及んでいます。このような苦い経験から、会長は第二次世界大戦に備えて二つのことを決断しました。その一つは、全ての管区との絆を保つために本部評議員のM.サンタニェス (Marie de Ste Agnes) を会長代理としてポルトガルへ、続いてアメリカへ派遣したことです。M.サンタニェスは、管区長不在の日本に度々 ロ-マ本部や他管区のニュ-スを送り、M.マグダラを励まし続けました。M.マグダラはその手紙をコピ-し「この困難な時に本会を導くという 計り知れない重荷を担って、私たちのためにご自分を与え尽くしてくださるメ-ル・マルグリットのために、益々大きな感謝をこめて熱心に祈りましょう」と一言添えて各共同体に配布し、日本の管区に対する会長と会長代理の温かい心を伝えたのでした。

実際、1940年(昭和15年) から1945年(昭和20年)までの5年間に、リスボンとニュ-ヨ-クから日本に送られてきたM.サンタニェスの手紙のうち、少なくとも71通が現在も管区に残されていますが、その多くが政府の厳戒体制の網を潜り抜けて、外交官や友人を通して届けられたものでした。こうして会長は戦争の間中、カトリック教会の中心に留まり、本会一致の象徴である創立者の墓前で祈っていました。第一次世界大戦の経験から「そうすることが自分の務め」と考えたのでした。実際に、非常に多くの国籍や言語をもつヴィア・ジェスティの本部は、バチカンの重要な情報局の協力的な存在になりました。多国籍のるつぼの中で、会長は「すべての人の母」として様々な国籍から成る共同体の姉妹たちとその日のニュ-スを分かち合い、犠牲と祈りによって戦争の重荷を共に担っていきました。M.サンタニェスが本部を去った後、会長の私的秘書を努めていたM.ネリアは「世界中が国と国との激しい戦いにあっても、ヴィア・ジュスティでは 会長の温かい思いやりにより、神の国を求める会の国際性と世界性が理想的に生きられていた」と証言しています。例えば、その細やかな心づかいによって、休憩時間などの時に日本の残虐行為について一切口にしないように配慮されていたこと、食堂での読書でも日本と中国のことに触れる内容の事柄が出てくれば、中断してでも他の読み物に代えさせていたなど、日本に限らず、どの国についても会長は非常にデリケ-トな対応を示していたと言われます。