第二次世界大戦下における教会と本会の対応-②
しかしながら、政府のキリスト教弾圧は厳しさを増すばかりでした。軍部が天皇制を戦意高揚の手段とする一方で、天皇は参戦を何とか避けようと努力していました。そのために、天皇はロ-マ教皇庁の力を必要としていました。天皇とロ-マ教皇庁との関係は、皇太子時代にバチカンを訪問して教皇ベネディクト15世に拝謁した1921年 (大正10年) 以来、親しみを増していました。この時、両者の橋役として日本とロ-マ教皇庁との関係樹立を成功させ、1919年 (大正8年) の初代駐日ロ-マ教皇使節の日本派遣を実現させたのは、山本信次郎海軍大佐でした。それ以来、駐日ロ-マ教皇使節を通して天皇とロ-マ教皇庁との交流が頻繁に行われていましたが、1940年 (昭和15年) 施行の「宗教団体法」はロ-マ教皇庁との関係を禁じるものでした。
戦争回避のために教皇ピオ12世の仲立ちを求めていた天皇が、政府が禁じていたロ-マ教皇庁との関係を取り戻すためにいかに努力したことでしょう。それは、カトリック東京教区年表から容易に察せられます。それによると、1941年(昭和16年)10月13日「天皇、木戸大臣にロ-マ教皇庁との国交樹立を要望」、15日には「大本営陸海軍部、戦争指導計画に基づきロ-マ教皇庁との国交樹立」に至りますが、ロ-マ教皇庁に使節を派遣することは仏教連合会の猛反対で実現させることはできませんでした。戦争に駆り立てる軍部の独走を止めることはできず、ついに12月1日の御前会議において12月8日を開戦日と決定されました。天皇とピオ12世の平和への願い
は踏みにじられたかに見えますが、一日も早い停戦の努力は開戦後も両者間で継続されていました。その具体的な表れが、1942年(昭和17年)3月に実現した「ロ-マ教皇庁特命全権公使」の派遣でした。2月に「天皇、東条首相にロ-マ教皇庁派遣使節の資格や宗教についてご下問」と年表にあるように、この派遣には天皇自らの働きかけがありました。これについて聖心会のシスタ-三好切子が「日本における聖心会80年の歩み」の中で次にように説明しています。
1942年3月、小林聖心女子学院の一回生の夫君・原田健氏(当時公使としてパリに滞在) は特命を受け「法王庁駐在使節」としてバチカンへ派遣された。対外的には大使という 称号が与えられていた。この人事には昭和天皇の意向が大きく働いていた。陛下は一日も 早い停戦を望まれ、その達成のためにバチカンの力を借りようと考えたのである。外交の 知恵が集積しているバチカンには、戦争を速やかに終わらせるための知恵を記録した資料 が多いだろうし、教皇に停戦の仲立ちを依頼する可能性を打診したいと期待されたのだった。 日米開戦前に陛下はすでにバチカンとの交流による平和維持を考えておられたが、仏教側 の強い反対でバチカンとの正式の外交交渉を結ぶことは不可能だった。戦争に突入した後と なっては、日本から直接バチカンへ外交使節を送りこむのは国内の空気からも全く不可能と 断ぜざるを得なかったが、外務省は天皇の強い意向をくんで、パリ在住の公使をバチカンへ 栄転させたのだった。国内的にも国際的にも、まさつの一番少ない形で日本の公式の使節を バチカンに送りこんだわけである。原田氏はプロテスタントの信者、夫人はカトリックの 信者という信教面も考慮されたのであろう。しかし、天皇の平和への願いも空しく、日本は 独善的な論理を振りかざして、停戦という可能性をいっさい拒絶し、泥沼のような戦いに のめりこんでいったのである。