数か月前に、うれしいお手紙を受け取りました。封筒の中には、かわいい赤ちゃんを抱いたAさんの写真が入っていました。北関東の小さな教会で私が最初にAさんと出会った時には、まだ中学生でした。小さい時にお父さんが亡くなり、フィリピン人のお母さんが必死に彼女と妹を育てていましたが、工場の給料だけでは間に合わず、夜はスナックで働いていました。Aさんは学校では「フィリピン人」と言っていじめられ、夜は妹のために食事の支度をし、真夜中に帰るお母さんを待つという生活でした。そのような生活に我慢できなくなったらしく、あまり学校にも行かず、夜遅く帰ってくるようになりました。
でも不思議なことに、必ず教会に立ち寄っていたようです。たまたま私が平日に教会に行ったとき、派手な服を着て、当時の主任司祭であったアメリカ人の神父様に悪態をついている姿を目にしました。私は「学校はどうしたの?神父様にそんなことを言ったらダメでしょう」とAさんをたしなめました。すると捨て台詞を吐いて、どこかに行ってしまいました。その後、神父様は「Aさんにとって教会が居場所なのだから、どんなことを言ってもいい。もし彼女が教会に来なくなったら次の道は見えている。彼女をそのまま受け入れるようにしているから、シスターもAさんをそのまま受け入れてほしい」と言われました。私は、日曜日には、母親や妹と一緒に普通にミサに与っているAさんの姿しか知らなかったので驚きました。「教会が彼女の居場所」という神父様の言葉が心に残り、私も彼女の「居場所」で待っていたいと思いました。
そんな中で、相変わらず学校には行かないままでしたが、教会にいる時間が増え「教科書を持ってきたら?」と声をかけたところ、持ってくるようになり、勉強をするようになってきました。国語、数学、英語など、自分で時間割を作って、教えてほしいと言うようになり、私も頭をひねって勉強を教えました。どうにか高校入試に受かり、信徒の方々の援助もあって高校に進むことができました。その後、短大の保育科で勉強し、保育士として働くようになりました。縁あって、よい青年と出会い、教会で結婚式をあげて幸せな新生活を始めました。
私は異動になり、その後連絡も取っていなかったのですが、突然お手紙をいただきました。手紙には「今の自分があるのは神父様やシスターが、教会でいつも待っていてくれて、自分の居場所があったからで、本当に感謝しています。あのころ自分が自分でいられる場所がとても欲しかった。それが教会でした。お陰さまで子どもを無事に出産し本当に幸せです。アメリカの神父様にこの写真を送って、私が幸せでいることを知らせてください」と書いてありました。
私は子どもの写真を見ながら、高齢になってアメリカに帰国した神父様を思い出していました。いつもニコニコして、独特のアクセントで「だいじょうぶね」と言って、教会に来る人ばかりでなく、町で出会う人皆と友だちになっておられました。上手とは言えない日本語でしたが、相手の言うことを本当に良く聞き、「なぜか神父様と話していると、ほっとしてまた話したくなる」という声も聞かれました。多くを語る方ではありませんでしたが、Aさんのように関わりの中で生きる力をもらった人が大勢いました。「あなたは愛されている」というイエスの愛を、なにげない出会いの中で伝えた偉大な宣教者だったと思います。私も周りの人々に「あなたであっていいよ。イエス様はそのあなたを愛している」と伝える宣教者になれるよう、神様に恵みを祈り求めています。
(Sr.N.H)