司祭や修道者たちは、年に一度、自分の場所を離れて静かな場所に行き、黙想をする「年の黙想」の時間があります。 コロナの影響で、私は10月まで黙想する所を見つけられず、どこでしようかと悩んでいました。ちょうどその時、ナザレト共同体の4人の姉妹が黙想のために他の所に行くことになり、ナザレトで留守番をしながら個人黙想をすることにしました。留守番といっても窓の開け閉め、掃除をするぐらいだったので一人で静かにお祈りをすることができます。これまで読めなかった霊的読書と黙想の準備をし、ナザレトで静かな時間を過ごしました。
そして、4日目にあることが起きました。留守電設定にして電話に出ないでもいいようにしてもらっていましたが、これまで電話一本もかかってこなかったのにまず、電話がかかってきました。そして、ナザレトのシスターに会いにお客様が来られました。その時、一瞬、私の静かな黙想の時間、沈黙の時間を邪魔されたような気がしました。それで、ナザレトの姉妹たちは皆、黙想に行って数日後に帰ってこられますと伝えて、早く帰ってもらうようにしました。その人は伝言を残して帰られました。私は、その時、その人のことを全く考えませんでした。
10月でしたが、ここまで歩いて来られたため、顔に汗がにじんでいました。その人の去っていく後ろ姿を見て、私は心の安らぎを感じませんでした。 私の祈りの時間を守るために、ここまで訪ねてきた方に、水一杯も出さずに帰らせたことが心残りになりました。そして、黙想中に読んだ創立者の伝記の中の、創立者が巡礼者に見せた温かい歓待の姿を思い出し、それと反対の姿の私を見て、このような聖書の句が思い浮かびました。
「この最も小さな者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」
(マタイ25・45)
祈りはもちろん重要でしたが、イエス様だったら、自分の家に訪ねてこられたお客様をそのまま帰さなかっただろうと思い、遠くに見えるお客様を呼びに行って、再びナザレト共同体に招いて話を交わしました。
個人で1時間祈るよりも、お客様といろいろな話をしながら、もっと多くのことを考えさせられたり、質問を受けて、私の心を見る時間となっていました。お客様が帰った後、一日を振り返りながら、もし私がその人をそのまま帰していたらどうなったろうかと考えてみました。 おそらく私は「なぜ水一杯もあげることができなかったのか」と後悔して、祈る度に、また黙想が終わるまで、そして終わってからも、きっと後悔でいっぱいの日々を送っただろうと思いました。
私たちは人生の中で大なり小なり選択の機会に出会いますが、その選択がどのような結果をもたらすか誰も予想できません。 私の場合を振り返ると、後悔した記憶が多いような気がします。今回の出来事を通してもう一度自分の召命について振りかえってみました。20年前、修道召命が私の進むべき道で正しいのか、これがイエス様の呼びかけであっているのか。長い間悩んで選択したあの時に戻って祈ってみました。そしてわかったことは、やはり後悔していないということでした。それほどあの時の私は、私の召命を捜したいという情熱で一杯だったし、その時まで神様とマリア様に行くべき道を教えてくださるよう長い間祈り、願ったことがなかったし、そうして決めた選びだったから決して後悔していないと確信しているのです。
創立者の「私たちの目的は成功ではなく愛です」という言葉を心に刻みながら、毎瞬愛を選択できる恵みを求めていきたいと思います。皆様もすべての選びの瞬間に神様が光を与えてくださるようにお祈りいたします。
(Sr.J. K)