マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

前橋修道院の生活の分かち合い(5)

前橋修道院の生活の分かち合い5 ~赤城山の裾野に隠された宝もの~

近隣の道端から赤城山を仰ぎます。ここも裾野の一部だと聞きました。

近隣の道端から赤城山を仰ぎます。ここも裾野の一部だと聞きました。

前橋修道院にやってきてから、近隣を歩いて最初に見つけた気になるスポットは、あかつきの村のすぐ横にある七ツ石雷電神社でした。道路から見ると、石造りの古びた鳥居がひっそりとあるだけで、その奥に何があるのかあまりよく分かりません。しばらくして慣れて来た頃、思い立って鳥居の向こうまで行ってみました。すると、道端の別の方向から見えていた骨組みの建物が拝殿のようで、その向こうに大きな石が祭られているのが分かりました。

インターネットでは、色々な方がこの神社の由来について書いておられましたが、あまりにも古いもので詳細は分からないようです。しかし、赤城山からの岩屑なだれと関係したものであると信じられており、周辺には古墳なども多く見られることから、大昔から人が住む土地だったのだということが感じられます。赤城山への信仰、それに関連して巨石群への信仰、土着の信心が浸みこんできた土地です。前橋修道院から赤城山はかなり離れているように思いますが、ここもまた赤城山の裾野の一部と言われていると聞いて驚きました。この土地にあかつきの村の聖堂、そして修道院の聖堂があり、ご聖体のうちにキリストが現存しています。…それは、本当に不思議なことです。私たちがやってくるよりも遥かいにしえよりこの土地に浸み込んできたものに思いを馳せると、世界宣教を生きるFMMとしての私たちがこの土地に派遣され、ここの人々と共に生きていること自体が神秘であると思います。

インカルチュレーションは、その土地に浸み込んだ歴史の中から、福音の種を見つけていくことのように思われます。種を蒔く人はキリスト…そうであるならば、私たちは太古から既に蒔かれていた隠れた種を見つけて育む、あるいは既に収穫が終わった畑の落穂を拾い歩く、そのように招かれているのではないかと思えてきます。既に刈り取られた後のように見える畑にも、まだ食べられるものが残されているかも知れません。聖霊に導かれて、普通なら見落としてしまう、無価値と思われているもの、打ち捨てられているものの中に何か善いものを探す…。一般的な価値観では不必要とされたゴミの山の中に、発展の背後で廃棄された汚水に満ちた海の中に、キラリと輝きを放つ宝を見つける…そんな感覚に近いような気もします。貧しさを生きたアシジのフランシスコは、そんなセンスも持っていた人だったのではないでしょうか。

桜のトンネルの向こうに不思議な空間が…

桜のトンネルの向こうに不思議な空間が…

その土地の人々が大事にしている伝統や価値を尊重しながらも、その陰に隠されたままになっている宝を福音的価値観に基づいて見つけだすには、私自身のアイデンティティがしっかりしていなければならないように思われます。しかし、私は一体誰なのでしょうか? その問いに対して、『Living Our Name File1』では、会憲79をふまえて、「真に力ある女性」としてのマリアが示されています。ここに記されているのは、「キリストの模範に倣って愛の奉仕をする真の力」(同書p.51)を持った女性です。世界宣教に招かれている宣教者としての私たちの姿は、華々しい英雄的な姿ではなく、落穂を拾う貧しい人や寄留者(Cf.レビ23・22)であるとも言えそうです。そのような人が、畑に隠された宝を見分ける目を持っているのでしょう。時には泥の中を手探りして大事なものを探すような、叫んでも叫んでも応えが返ってこない中でじっと耐え忍ぶような、無限に続く退屈さの中で淡々と仕事をこなすような、そのような不毛に見える状態に留まり、待ち続けることもまた、真の力を育み、発揮するために大切なことなのでしょう。そのような状態の中に光を見つけるかどうかは、ただ恵みを信じることだけなのかも知れません。希望がなければ、決して待ち望むことはできないと思います。愛は、不毛とも思える状態に陥っても尚、その人々のために自分の使命を全うし続ける姿の中に、生まれてくるのでしょう。姉妹たちの姿を見ながら、終生誓願を立てることはそういう覚悟を求められることなのだと、しみじみ感じています。

(有期誓願者・M.O)