~実りの秋、味わいの秋~
町で育った私にとって、稲が実った水田をつくづくと眺めるという体験はとても貴重です。麦畑だったところが田んぼになり、徐々に金色を帯びてきています。びっしりと実った稲が、重そうにしな垂れているのを見ていると、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺を思い出します。成熟した人の謙遜な姿を表現した俳句で、座右の銘として大切にしている方も多いようですが、よくよく思い巡らしてみるととても福音的な歌だと感じます。
稲は実るほどに重みを増していきますが、その実りを稲自身が味わうことはありません。実りは他者が味わうためにあります。その味わいを与えてくれる実りが豊かであればあるほど、稲穂は頭を垂れて〈謙遜〉な姿を取っていきます。このことから、本当に〈謙遜〉な人は、その人のうちに聖霊によって与えられる賜物、その富を豊かに持っている人であると言えるのではないでしょうか。そして、稲は他の稲と自分自身を比べません。その稲自身が精いっぱい実っていく、それだけのことです。私たちが、自分に与えられた聖霊の富、その豊かさに気がつくことなしに、真に〈謙遜〉な人になっていくことは難しいのかも知れません。Living Our Name File1の中で、カリスマ(ギ:Kharisma)という語について細かく説明している箇所がありました。
語源を同じくする三つのことばがあります。:名詞のkhara=「喜び」 kharis=身体的、心理的な意味での「恵み」、そして、kharizomaiから派生した動詞で、意味は「恩恵を与える」「誰かを喜ばせる」そして「赦す、誰かを寛大に処する」です。…カリスマという語の一番近いことばは、ユーカリスチアeukharistia「感謝」で 主の晩さんの儀礼的な再現を意味するように使われています。(同書p.13-14)
私たちが、誰かを喜ばせるために夢中になるとき、相手を赦そうと懸命に祈るとき、私たちの中には普段は意識することのない〈真の喜び〉が育っていくのでしょう。それが、ただ何かしてくれてありがとう、自分の思い通りになって嬉しい、という気持ちを越えた〈真の感謝〉へと私たちを導いてくれるのでしょう。このことは、私の生活の中で、共同体の姉妹たちが、出会う人々が、既に教えてくれていることです。自分の都合を脇に置いて、相手の話を懸命に聞いている姉妹はとても美しい顔をしています。相手とギクシャクすることがあっても尚、その人との良い思い出を思い起こし、私たちに分かち合ってくれる姉妹の声は澄んでいます。いつも苦しむ人に心を砕いて祈り、彼らとの関わりを大切にしている姉妹の手には温かみがあります。修道院の友人である方々の姿も同様です。皆、自分自身の中に相手を思いやる気持ち、相手に善を願う祈りの心を育んでいらっしゃるように見えます。頭を垂れる稲穂の姿は、聖母マリアにも重なってきます。大天使ガブリエルの挨拶について、次のように書かれています。
謙遜になろうと、自分がまるで価値がないかのように振る舞ってしまうこともあります。自分のいただいた賜物を、あたかも無いかのように隠してしまいたくなるときもあります。けれども、それはマリアの謙遜さとはかけ離れたことなのだと思いました。マリアの中に充満した恵み、その喜び、感謝とはどんなものなのでしょうか。マリアは恵みで満たされ、自分の中に満ちる恵みに気づいていた方だからこそ、「なれかし」と頭を垂れることができた…あたりに広がる水田の稲穂から、そんなインスピレーションをいただいています。
有期誓願者 M.O