マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

有期誓願者の生活のわかち合い(2)

有期誓願者・MO

あかつきの村は、故・石川能也神父様の呼びかけによって1978年から開墾され、79年に開村しました。エマウス運動のムーヴメントの中で、人々が互いに尊重し助け合い、兄弟姉妹の愛を生きる共同体として生まれたのでした。私たちFMMの前橋修道院は、85年からあかつきの村を手伝うようになりました。その後、苦しむ人々と共に生きるため、インドシナ難民の定住推進に協力し、数多くのベトナムの方々を受け入れてきました。95年に社会福祉法人フランシスコの町に加入し、98年には開村20周年を祝いました。2000年頃から、ベトナム難民の方々の一時滞在施設という役割を終え、精神障がいによって生活に困難を抱える方々の支援活動を、グループホーム、地域活動支援センターという形で継続しています。事業の名称も、「グループホームあかつき荘」、そして「就労継続支援B型事業所あかつき」となり、それらを支える「リサイクルバザー」の3つの事業として運営されています。現在、グループホームで生活するベトナムの方はわずか数名で、村の様子は少しずつ変化しているようです。(あかつきの村 リーフレット及びホームページ参照)しかし、時代の必要に応じて変化し、社会福祉法人としての形を整えつつ、譲れない大切な部分を密やかに守り続けている方々がおられます。ですから、当初とは違う形であっても、今もなお、人目に触れない、隠れたところで燃え続け、受け継がれている炎が確かにある、と感じられます。

洗礼を受けたすべての人は、聖霊を通して賜物をいただいていることを意識し、その賜物を差し出し合って、相互に、そして世界中の人々に奉仕しています。ひとつの体である教会は、賜物の泉であると同時に、差し出された賜物によって築かれ、神さまの恵みの、目に見える〈しるし〉となっています。目に見える〈あかつきの村〉も、人の目には隠されている愛の炎の〈しるし〉となっているように思われます。

『Living Our name File1』の中では、広い枠をもつ「賜物(カリスマ)」という言葉は、修道会のカリスマの意味に集中して語られていきます。その中で、「一般的にいって、創立者たちは当初、兄弟姉妹に伝えるべきカリスマの筋道たった概要をもっていたわけではありません。彼らは呼びかけを徐々に聞いて一歩ずつそれに応えてゆきます。」(p.15)とありました。アシジの聖フランシスコも、私たちの創立者マリ・ド・ラ・パシオンも、「呼びかけを徐々に聞いて一歩ずつそれに応えて」いくプロセスの中で、彼らのユニークな賜物が磨かれ、誰の目にも明らかなものとなっていったのでしょう。あかつきの村は修道会ではありませんが、何かこの文章と呼応する部分を感じます。石川神父様が生涯をかけて応えていこうとされた、その歩みのすべて、関わりのすべてが、あかつきの村の表現し難い、言い尽くし得ない魅力を育み、唯一無二のカリスマを形成していったように思えてなりません。そして、あかつきの村は、決して石川神父様だけのカリスマの輝きで終わるものではなく、この村の過去から現在に至る住人、関わるすべての人々がお互いに差し出しあってきた賜物によって出来上がっているもので、また成長し続けているものでもあると思います。職員の方々、ボランティアの方々、近隣の方々、多くの方々との関わりの輪が広がり、むしろ、あかつきの村の共同体というパン種は、村の敷地を超えて全世界に向かって大きく膨らみ続けているのかも知れません。

会のカリスマは、創立者たちの生涯をかけた応答によって育まれますが、後に続く人々にとっては一つの筋道だった概要として、はっきりと理解されるべきものだと『Living Our name』には書かれています(同上)。それは私たちが、それを「新しい現実」の中で生きるためだそうです。私にとって、本会のカリスマはまだ漠然としていて、はっきりと理解できている状態とは言えません。しかし、共に生活する姉妹たちを通して、今この時代の中で、私の生活の中で、目に見えるものとなって、確かに伝わってきています。聖霊の賜物は、具体的な人との出会いによって相互に見出すことができるものなのでしょう。姉妹との日常生活、出会う人々との何気ないやり取り、それとは気づかないさりげない思いやりのうちに、花開き、実を結んでいくのだと思われます。

教皇様は、「夢を見ましょう」(回勅『FRATELLI TUTTI』、8参照)と言っておられます。それは同じ星に住む一つの家族である兄弟姉妹が、それぞれの肉声をもって呼びかけ合い、知恵と身体、持てるものを差し出し合って、助け合い、支え合って実現する、兄弟愛に満ちた世界の実現への呼びかけであるようです。今からおよそ40年前に、石川神父様は、「あかつきの村をつくろう!」と呼びかけました。この呼びかけは、福音的な真の兄弟愛に満ちた共同体を築いていく〈夢〉であったことでしょう。時代を問わず、常に普遍的な呼びかけとして私たちの耳に届けられるみことばは、イエスの〈夢〉を、私たちも共に見るようにと誘っているように感じます。

 

「キリスト・イエスが抱いておられたのと同じ思いを抱きなさい。」(フィリ2・5)…弱く醜い考えに囚われてしまう自分が、神様であるイエスと同じ思いなど、とても抱けないような気がしてしまいます。ですが、生きた躍動的な関わりの中で、誰かと一緒に夢を見ることができれば、一人では続けることすら困難なことでも、少しずつ実現していけるのではないか…という希望をもつことができるように思います。隠れたところで燃え続けている愛の炎は、みんなで少しずつ分かち合って、消えそうになったら互いに励まし合う、そのようにして受け継がれ、この世界全体が神さまの愛のしるしになっていく一歩となるのかも知れません。