マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-50

聖心聖マルグリット恵老院の新築祝別式 

1931年9月8日、マリアの誕生の祝日に、病院敷地の隅の方に新築された木造老人ホ-ムの建物の祝別式がシャンボン大司教によって行われ、小聖堂で初ミサが捧げられました。このホ-ムは、1922年3月にカトリック婦人会によって創設された「聖心聖マルグリット恵老院」で創設以来17年間その経営下に置かれていましたが、 事実上この日に本会へ委託されました。法的にはその翌年10月25日になっています。その名も「聖心聖マルグリット恵老院」のまま踏襲されました。祝別式の前日、婦人たちに付き添われてこの建物に移転して来た18名の老人たちは、「聖心マルグリット恵老院」が綺麗な建物に美しく変身してしまったことに驚きを隠せませんでした。これまで転々と仮住まいの生活を強いられ、これ程豊かな自然に囲まれた素晴らしい住まいに住んだことがなかったのです。真っ白い建物と真っ白い聖服に包まれた修道女たちに囲まれて、老人たちの顔は幸せに輝いていました。この日のために、カトリック婦人会も東京朝日新聞社講堂で「舞踊と映画の会」を開き、建設資金を集めて経済的に援助しています。このようなチャリティ・ショ-で積極的に支援活動を行い、更に聖母病院の開院に備えていろいろな動きが見られるようになりました。

カトリック婦人会主催の「聖母病院施療部後援」慈善演芸会もその一つでした。Mクリゾストムは、カトリック婦人会が聖母病院施療部の建設資金援助のため慈善音楽会の開催を計画していたことをシャンボン司教の手紙で初めて知りました。そして、カトリック婦人会がこの病院事業に関心を寄せ続けるように計らう神の大きな摂理に深く感謝し、信頼をもって北京を後にする旨を大司教に書き送っています。管区長が船上の人となった時、東京ではこのチャリティ・ショ-が盛大に行われていたのでした。それからおよそ一か月後の6月に、カトリック中央出版部発行の公教雑誌「聲」が「東京に公教病院設立の計画」と題して次のような記事を掲載しています。

 

慈善事業の家元とも言うべき我が公教会にしては、函館、札幌、秋田、

金沢、神山、熊本、久留米、八代等の諸地方にそれぞれ病院を開設し、

救療施薬等、慈善界に貢献するところ多けれど、我が日本の帝都なる

東京には未だ一つの病院さえ有しない現状を、聖職者も一般信者も

遺憾として一日も早くこれが設立見ん事を望み居りしが、先年麻布

公教会に生まれたるカトリック婦人会の諸姉は、率先してこの希望を

実現せんと、霊父ツルベン師の指導のもとに幾回のバザーや音楽会等

が開かれ、市内各教会の婦人たちとも提携してこの基金を集めつつ

あるが、未だ病院開設の程度には達していない。兎も角、病院の経営

はフランシスカン・ミッショネール・ド・マリという童貞会の手に

よるのが最も上策にて、30年以前よりの例に見るも熊本市内琵琶崎の

待労院の如き、かくして成功を見たるものである。

 

それ以来、カトリックタイムスや「聲」誌が、カトリック婦人会による「国際聖母病院慈善演芸会」の開催とその報告を逐一報道し、信者のみならず一般にも支援を呼びかけていました。それによると、後援者はベルギー大使、スペイン大使、イタリア大使、ブラジル大使、チェコスロバキア公使、ポ-ランド公使館書記、フランス大使館附武官、日本外務次官などで、演出者の顔ぶれもそうそうたるものでした。なかでも、最大の支援者は駐日ロ-マ教皇公使フルステンベルグ大司教とシャンボン大司教でしたが、麻布教会をはじめ、各小教区の信者が一丸となって病院の定礎式から開院にいたるまでの労苦と喜びを本会と共にしてきたのです。当時、東京には関口(信徒数961名)、神田(679名)、浅草(1,300名)、築地(466名)、本所(764名)、麻布(1,380名)、本郷(327名)、高円寺(443名)、大森(406名)の9つの小教区がありました。どの小教区も、関東大震災後の復旧工事に忙しい日々を送りながらも婦人会の慈善演芸会を支援し、聖母病院だけでなく公教大神学校、神山復生院、ベタニアの家などを援助していたのです。