M.サン・ミシェル会長の帰天
1931年8月4日、電光のように突然、悲しい知らせが共同体に襲いかかりました。「会長帰天、シャトレに眠る」と、非常に短い電文がパリからでした。早々にM.アデマ-ルは日本の全共同体に電報で知らせました。フランシスコ会のヨゼフ院長もこの知らせを聞くと直ちにお悔やみの言葉を伝えに来院し、会長のために祈り、ミサを捧げると約束して帰りました。M.サン・ミシェルは第一世界大戦で大きな痛手を被った本会を復興させ、 奇跡的なまでに発展させました。パリ外国宣教会総長の言葉よれば「極めて素朴で雄々しい聖人、慎み深く好意に満ちた大胆な宣教者、宣教修道会の理想的な会長」であり、創立者の言うように「本会の聖ミカエル」でした。しかし、この年の7月17日に訪問先のパリで62年の生涯が閉じられました。会長M.サン・ミシェルについてプーロワ司教の言葉通り「あの方は、神の事業をするためには種々の深い決意と強烈な内的生活をもつ必要があるということをよく理解しておられました。あの方に多くの課題を引き受けさせ実現させたのは、その活きた信仰と神の摂理に対する確固たる信頼でした。」
会長帰天のニュ-スは本会の全共同体にとって悲しい知らせでしたが、特に東京の共同体は深い悲しみに包まれました。世界の経済恐慌で非常に多難な時期に行われた東京修道院の創設と聖母国際病院の建築に関して、会長のM.サン・ミシェルは終始、東京の共同体と労苦を共にし、常に細やかな配慮を寄せていました。それだけに会長が聖母病院の開院を待たずに天に召されたことは非常に残念なことでしたが、5月24日の「仲介者の聖母」の祝日に執り行われた定礎式のニュースが会長のもとに届いていたことを知り、共同体は少し癒されました。その志は、教会と大使館の支援のもとに確実に実現され、早速、養老院の祝別の日を迎えることができました。この建物は、病院よりも一足早完成されていたのです。