日本のFMM共同体を一つに結ぶ東京修道院
日本の中心に据えられた東京修道院は、創設当初からフランシスコ会と親密な関係を保ちながら 聖フランシスコの精神を土台に築かれていきました。とりわけ院長を兼任することになった「王たるキリスト管区」の管区長Mクリゾストムの長期滞在は日本のFMMに大きな恩恵をもたらしました。大切な事業計画が順調に動き出したこと、東京に招かれてきたフランシスコ会に率先して協力できたこと、東京で初めての終生誓願式が行われたことなど、東京修道院が聖フランシスコの精神のもとに日本の南と北にある4つの共同体を一つに結ぶ役割を果たしていけるように導かれていきました。
東京修道院は5部屋に9名が住む非常に狭い家ですが、病院の第一工事が終了次第、病院内に移動することになっていたので、姉妹たちは、不自由でも同じ目標に向って祈り,地域の住民に近づき、親しさを増していきました。当時、世界恐慌の波を受けて首都の東京でも極度の貧困と病気が人々の心と体を蝕んでいました。この小さな家でも、他の修道会に病人が出ると一部屋開放して何日も看病し、時には玄関先に捨てられていた赤ん坊を引き取って世話をしたこともありました。その善良さを知って貧しい親たちが修道院の玄関先に置いていったとのことです。赤ん坊はシャンボン大司教の手で洗礼の恵みを受けると、養育のために人吉修道院へ移されました。やがて、姉妹たちは購入した機械でアトリエの仕事を始め、空き地を耕して野菜や花を栽培し、貧困家庭を訪問して医療を施していくうちに、病院の建設反対者からも病院の開設が待たれるようになりました。
1930年5月、病院の定礎式が行われました。これが、計らずも 本会の「世界宣教」を公にする重要な出来事となりました。当時カトリック新聞「カトリック・タイムス」やカトリック雑誌 「聲」が、東京市の当局者、各国の大使や公使、宣教師、司祭、修道者など多数の名士や外国人が列席する国際色豊かな礎石祝別式を大々的に報じたからです。主だった参列者の名が署名されている祝別文にはこう書かれていました。
昭和5年5月24日、うるわしき平和・基督信者の助けなるマリアの祝日に
聖職者・修道者・市当局者 及び市民の列席を仰ぎ、東京の大司教ジョアンネス・アレキシスが礎石を祝別し 且つ 鎮定せり。
天主の光栄、聖マリアの誉れ、霊魂の救いを計らん為、全世界に善く活動する
マリアのフランシスコ童貞会之を経営し、東京のカトリック婦人之を後援する。
姉妹たちの手で芸術的に飾られた祝別文はメダイと一緒に鉛の筒に入れて石の中にはめ込まれ、シャンボン大司教の祝別のもとに、建設中の鉄筋コンクリ-トの堂々とした建物の南東の角に納められました。こうしてこの病院は正式に聖母の保護のもとにおかれ、聖母病院と呼ばれるようになりました。この日、戸塚師は「この病院を国籍、身分、宗教を問わず、助けを求めて来る人すべてに救いの手を差し伸べる病院」と紹介しました。これは「善きサマリア人」の精神をもって神の家をつくることを夢見てきた戸塚師の理想実現の第一歩でした。
定礎式後、Mクリゾストムは 「王たるキリスト管区」の管区長として中国と日本の公式訪問を再開しました。東京修道院ではMアデマ-ルを管区秘書に、Mデイヴァン・パスツ-ルを院長不在中の代行に任命し「管区館」の形に整えられていきました。
やがて開設される老人ホ-ムと国際聖母病院のためにも必要な人材が集められ、小さな修道院は南と北を移動する会員や海外から派遣されて来た会員で賑やかになりました。東京創設以来、僅か3年間に10か国におよぶ総勢21名の会員が到着しています。そこでは、管区長に会って直接話をすることも、移動することも容易になり、管区長も気軽に共同体を巡回訪問できるようになりました。その後間もなく、院長の異動が行われています。