マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

かかわりを生きる-ソーシャルワーカーとしての宣教-

はじめてSくんの母と出会ったとき、発する言葉は丁寧だが私を見つめる眼差しに距離を感じた。それは保育園の園庭開放の日だった。誰とも話さず、ただSくんと向き合って、周囲の人に背を向けていた。Sくんに障害があることを知ってから、ずっと引きこもっていたのだ。園長だった私は保育園の入園を促した。母の迷いとは裏腹に父は入園を望み、2歳4ヶ月でSくんは保育園児となった。入園後まもなく、Sくんに「てんかん」が見つかり、その発作は日を追う毎に激しくなった。どこで転倒するかわからないためヘッドギアを着用したが、幼い子どもたちはなんの抵抗もなく受け入れてくれた。

入園の翌年、母は私からカテケジスを学びたいと希望した。母はSくんの受洗を機に洗礼を受けたが、ほとんど勉強をしていなかった。週1回の勉強はいつも彼女の質問から始まった。「なぜこの世に悲嘆があるのか」「神様がいるのなら、なぜ苦しんでいる人は救われないのか」「戦争や災害はなぜ起こるのか」等々、社会の矛盾を自分の身に置き換えて、彼女は憤りを露わにした。あるとき母は私に手紙を書いた。「生きることは、苦行をせよと何者かに命ぜられているかのようだ」と。私はそれを読んで衝撃を受けた。「ベールを被ったシスターたちを何度も見かけた。でも誰も私を助けてくれなかった」と彼女は言った。すぐ近くに住んでいながら、私は自分の場から出ることなく、福音は彼女に届いていなかった。

このときから私は可能な限り自分を開いて、彼女と時間を共有した。彼女を名前(Rさん)で呼び、Sくんの母としてではなく、一人の人間として神様から愛されていることを伝えようとした。こんなにも苦しい生き方をしてきた母の痛みに寄り添いたいと思った。当時彼女がSくんとダブル介護していた実父(Sくんの祖父)も訪問し、父娘関係の痛みも傾聴した。かつてワーカホリックだった実父もいつしかRさんに「ありがとう」の言葉を発するようになり、関係が和らいで天国に旅立った。

Sくんが年長になった4月。受難の月曜日だった。真夜中、すでに保育園を退職していた私のもとへ母から電話が入った。Sくんがお風呂で溺れて救急車で搬送されたと。私は翌朝すぐに病院に駆けつけた。しかしSくんは危険な状態で会うことが出来なかった。母は動揺し我を失っていた。自死するのではないかと思うほど取り乱し、私は数日間、彼女の家に留まった。

神様はSくんの命を救われた。しかし、入院は長引いた。母の虐待を疑った病院が児童相談所に通告し、病院が子どもを一時保護する役割を果たしていたからだ。どんなに両親が訴えても退院は認められなかった。児童相談所の職員は自宅にまで来て溺れた現場を再現させ、母はその出来事によっても心に深い傷を負った。私はソーシャルワーカーとして児童相談所の担当者と話し、今後同じ事故を起こすことのないように、週1回必ず訪問して生活環境を整えることを約束した。その数日後、Sくんの退院許可がおりた。Sくんは帰宅し、家族のなかの何かが変わった。

Sくんは小学生になった。2019年11月、Sくんが2年生の秋に教皇フランシスコが日本を訪れた。東京ドームのミサの日、Sくんと母は5万人の大群衆の中にいた。教皇様に触れていただくことなど考えてもいなかったが、一人の女性が叫んだ。「パパ様、こっち、こっちです。この子病気なんです。お願いします」と。1周目、パパモービルは素通りした。しかし女性は叫び続け、2周目に奇跡が起きた。教皇様が車を降りてSくんに近づいて来られたのだ。そして、母の腕のなかで眠るSくんに按手し接吻された。神様が与えてくださった贈り物はあまりにも大きく、彼女は今もその祝福の瞬間を感謝しながら生きている。たとえ、今までと何も変わらない日常が続いたとしても、彼女自身が変えられたからだ。

今、助けの必要な人が目の前にいる。それがイエスの宣教の動機づけだった。保育園時代、子育てに悩み苦しむ母たちと数多く出会ってきたが、組織の縛りで直接的な援助ができないことに、私は苦しんでいた。具体的なかかわりは痛みを伴い、引き受けなければならない重荷や秘密も多い。しかし、それを避けずに生きるとき、主の愛がすべてに勝ることを、いつか必ず見せてくださる。(Sr.A.T)

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