マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-46

日本列島の北端と南端から中央へ広がるフランシスコ会

札幌の修道院創設がフランシスコ会の再来日と深い関係があったことは既に述べましたが、東京の修道院創設も、フランシスコ会の東京進出と大いに関係がありました。フランシスコ会は北海道から九州へそして 首都・東京へと広がっていったのです。

1921年 (大正10年)、フランシスコ会は北の果ての北海道・サハリン・千島列島に次いで、当時、長崎教区に属していた南の果ての鹿児島県と沖縄県を委託されました。この地域はパリ外国宣教会の司祭たちが開拓した宣教地ですが、第一次世界大戦時に応召された司祭たちの戦死または負傷によって極度に宣教師が不足したため、長崎司教から司祭派遣の要請を受けた布教聖省がフランシスコ会に委託した地域でした。その時、地区長として送られてきたのは、戦地から北海道に戻ってきていたフランス人のモ-リス・ベルタン師でした。モ-リス師は鹿児島県と沖縄地方でも、カナダ管区の本部から惜しみない人材と資金援助を受けながら修道院を創設し、教会と神学校を建て、教育と福祉の事業を開き、邦人司祭の育成に力を注ぎつつ日本の教会と社会に聖フランシスコの精神を吹き込んでいきました。特にカナダ管区は、350余年ぶりにフランシスコの兄弟たちの血で洗い清められた殉教地に戻れたことをことのほか喜びました。カナダ管区の『宣教師たちの遺産』はこう伝えています。

日本の殉教者たちに憧れていた宣教師たちは 当時 長崎教区の鹿児島へ行くことを大変喜んだ。殉教者たちの流した鮮血の功徳は 後輩である自分たちの宣教の働きに神の前に強烈な伝達者であり、そして その功徳を自分たちが受け継ぐ特権をもっていると信じていた。

この神の計画を果たすために選ばれたモーリス師にとっても、長崎教区はフランシスコ会への招きを最初に受けた記念すべき場所でした。日清戦争の勃発で海軍士官として長崎に寄港した際、大浦天主堂で深い祈りを捧げているうちに神の呼びかけを聞いた場所だったのです。その時、この若き士官に神の呼びかけを大切に遂行するようにと激励しつつ、自らもその実現のために祈ることを約束したのが、クザン司教のもとで副教区長を務めていたパリ外国宣教会マルナス師でした。マルナス師はフランシスコ会第三会員でした。このマルナス師の祈りが実を結び、更にロ-マで出会ったベルリオ-ズ司教にフランシスコ会を紹介した師のおかげで、モーリス・ベルタン師はその12年後にフランシスコ会宣教師として再来日しました。そして、今度は思いがけなく最初に召命の呼びかけを聴いた長崎教区で新しい使命達成のために働くことになったのです。カナダでは管区こぞって寄付集めに奔走し、多くの兄弟を鹿児島へ送り出すとともに、学校事業のためにカナダの無原罪聖母宣教女会を宣教地へ招き、鹿児島と奄美大島の宣教を支えました。1927年(昭和2年)、この地域が長崎司教区から分離独立して鹿児島知牧区になると、種子島と沖縄地方の宣教も本格的に再開されました。