教会の中心に位置するFMM修道院の役割
東京大司教区に置かれた共同体の日々の生活は、駐日教皇使節、戸塚文郷師とその協力者ミス・ヴァイオレット、建築家、麻布教会婦人会のメンバ-など教会と建築の関係者の訪問、教会生活への参加、サン・モ-ル会や聖心会との交流に彩られていました。管区長が本会の代表として参加した教会行事の中でも、教会の発展を物語る大きな出来事が幾つかありました。
その一つは6月2日に関口のカテドラルで開かれた駐日ロ-マ教皇庁使節マリオ・ジャルディーニ大司教主催によるバチカン市国独立祝賀会で、皇族や各国大公使をはじめ300名に及ぶ著名人が参列しています。この歴史的な出来事についてパリ外国宣教会の報告書は、「感謝のテ・デウムが関口のカテドラルで高らかに響き渡り、ラテラノ協定の祝賀晩餐会が司教館で行われた。教皇使節と協議の末、儀式はイタリア大使が準備した。大司教がテ・デウムを先唱し教皇使節の説教を戸塚師が日本語に訳した。日本とイタリアとバチカンの国歌が宮内庁楽団によって演奏された。皇族から2人、外交団、時の首相(田中儀一)、参議院議長、その他民間と軍部の主だった人物など、皆、気品のある華やかな参列者であった」と伝えています。
もう一つは、キノルド師が「札幌知牧区」から昇格した「札幌代牧区」の代牧司教に叙階されたことです。6月9日、札幌北1条教会で行われた叙階式にM.クリゾストム管区長も東京から参加しました。これは北海道の宣教発展を意味する大きな出来事であり、札幌代牧区と鹿児島知牧区を委託されるまでに発展した日本のフランシスコ会にとって特別な喜びでした。
特に、札幌修道院創設当初からフランシスコの娘として開拓地の宣教の苦しみと喜びを共にしてきた本会にとって意義深いことでした。最初にフランシスコ会に委ねられた札幌北部とその周辺は信者数僅か5~6名の地域でしたが、その後、徐々に活動範囲が北海道全地域へと広げられました。代牧区に昇格されたこの年には、11の司祭常駐の教会と6つの伝道所にまで成長し、受洗者と洗礼志願者だけでも532名と記録されています。2年前に司教職を辞退して北海道を去ったベルリオ-ズ司教は母国フランスへ帰国し、日本におけるフランシスコ会最初の司教誕生を祝いつつ、6か月後に天に召されました。北海道で宣教に従事したことのあるシャンボン東京大司教は祝辞の中でキノルド司教にこう述べています。
私はとりわけ一つの点に注目したいと思います。それは、この日本でいろいろな修道会に属する数か国の人が宣教師として働いていることであります。皆が一致して働き、同じ目的・教会の発展に寄与しています。特に、隣り同志の函館と札幌の両教区が仲睦まじく歩んできたことであります。ですから、私は司教様が北海道に到着された際、函館で船中にお迎え出来たことを今でもまだ 特別な喜びとしているのであります。
ここで、今は遠く離れておられますが、常に最大の関心をもって司教様とその布教事業を激励されたもう一人の方を思い出さなければなりません。それは、当時の函館司教アレキサンドル・ベルリオ-ズ閣下であります。司教様を招き、終始、特別の信頼を寄せてこられたのは実にこの方にほかなりません。司教様がその信頼に十分応えられたことは、教区の発展と本日祝う司教叙階が示しております。
これは明治時代に壊滅されたと思われていた日本の教会が、パリ外国宣教会によって建て直されていった歩みを物語るものでした。日本の全教会を委任されていたパリ外国宣教会は教会の発展に伴い、日本に招いた宣教修道会に宣教司牧区を委託し、4教区からそれぞれ分離独立させていたからです。
もう一つの出来事は、麻布カトリック婦人会の会長であり、聖心聖マルグリット会「恵老院」の院長でもある山本信次郎夫人が天国へ召され、駐日教皇使節の司式のもとに麻布教会で葬儀ミサが行われたことです。M.クリゾストムも、大勢の司祭や修道会代表者とともにこの式に参列しました。
このような教会の重要な行事に修道会を代表して参列することによって、管区長は日本の教会の中心地に創設された東京修道院の存在と宣教の重要性を再確認することができました。