マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩みー44

東京修道院の創設

1929年 (昭和4年) 5月25日、思いがけず院長を兼任することになった管区長MクリゾストムとM.被昇天は中国から、そして、 M.ベアタが熊本から東京へ到着しました。この日姉妹たちは宿泊先のサン・モ-ル修道院に落ち着く間もなくシャンボン大司教に導かれて、落合に用意されていた仮住まいへ辿り着きました。これが日本で20年ぶりに創設された東京修道院です。大司教館から運んで来た「守衛の家」を修道院に仕立てたこの建物は粗末でしたが、姉妹たちは「フランシスコの娘に最も相応しい質素な住まい」と喜び、廊下続きの真新しい白い聖堂に希望を膨らませました。この夜、サン・モ-ル会の修道院へ戻った一行は最初の3日間を挨拶回りや買い物で過ごしました。これまでも、サン・モ-ル会のシスターたちは、東京に修道院のない本会のために、日本に派遣されて横浜港に到着したFMMや、日本列島の南と北を移動するFMMを受け入れて温かくもてなし、日本での宣教体験を分かち合うなど、度々本会の姉妹たちを支えてきました。また本会の方も、サン・モ-ル会のシスタ-たちが関東大震災で北海道へ避難して来た時や、病気・高齢のため避暑地で休養を必要としている時などに札幌の共同体にシスタ-たちを受け入れたこともありました。

 

5月28日、いよいよ、東京修道院での生活がシャンボン大司教の初ミサで始まりました。祈りの生活に必要な物は全て会長から届いていたので 初日からご聖体の主を迎えることが出来ました。この時の感激を日誌はこう伝えています。「最初の日からイエス様はこの家に住んでくださいました。イエス様がこれ程早く私たちのもとに来られ、私たちと共にいてくださるとは何と大きな喜びでしょう! 何と大きな力、慰めでしょう!」と。シャンボン大司教は「東京にフランシスケン修道院が創設されたのは仲介者のマリアのおかげです。マリアの保護のもとに新しい事業で多くの善がなされ、多くの人々が真の宗教に導かれるように祈りましよう」と一同を励ましました。それ以後、フランシスコ会が東京に住むようになるまで、聖体礼拝の召命を有するFMMのために、司教館から徒歩でミサと聖体降福祭をあげるために来院することが、大司教の日課となりました。幸いにも、この日のうちに副院長のM.コンソラトリスとM.リオバがアグレジェのアグネスと一緒に札幌から到着し、創設者が全員揃って「神の家」に落着くことが出来ました。5つの国籍からなる共同体は次の通りです。

 

M.クリゾストム(M.de St.Jean Chrysostome)べルギ-:管区長兼初代院長M

コンソラトリス(M. Consolatrix)ルクセンブルグ:副院長

M.ベアタ (M. Beata du l’Immaculee Conception) カナダ:ホ-ム園長

M.リオバ (M. du Precieux Sang) オ-ストリア:病院事務担当

M.被昇天(林 京)日本人:共同体と事業の場で日本語に関する事務処理全般

アグレジェのアグネス(日本人):台所(一年後に家族のもとへ帰る)

 

聖母月最後の2日間、共同体は顕示された聖体を礼拝し、林の中にマリア像を建て、「仲介者のマリア」の保護を仰ぎつつ東京修道院での生活の第一歩を踏み出しました。小さい日本家屋で姉妹たちの忙しい生活が始まりました。寝食に必要な最低限の物は戸塚師と婦人たちが揃え、祈りの生活に必要な物は会長から届いていました。M.クリゾストムは院内の仕事のほかに、病院と養老院の建築のために資金調達と建築の打ち合わせや、管区長として中国と日本の共同体訪問に奔走する日々を送っていました。ここが日本の首都ともなると、創立当初から訪問客が後を絶ちませんでした。教会関係者の訪問を受けるだけでなく、到着したばかりの宣教女には宿を貸し、病気の宣教女がいると修道院の小さな部屋を空けて看病することもありました。