1928年、東京大司教区が抱き続けてきた国際病院の設立と老人ホ-ム再設立の夢が本会の受諾により急速に現実味を帯びてきました。本会が購入した下落合の広い土地は本会の社団法人が認可されるまで『天主公教会の社団』に登記され、あとは建設の日を待つばかりとなりました。ところが、この段階で設立の妨げとなる難問に直面してしまったのです。その一つが落合町の住民による病院建設反対運動であり、もう一つは恵老院を営んできた婦人会とこの事業を引き継ぐシスターとの間に起きた問題でした。
地元住民による病院建設反対運動
落合町の住民たちは、「下落合の4,500坪の土地に天主公教会付属の孤児院及び病室、養老院を設立する計画がある」と聞いて「病院設立絶対反対」の運動を起こし、陳情書に署名簿を添えて大司教にその意思を表明したのです。反対理由として次のよう点が挙げられていました。
- 当落合町、とくに病院の建設予定地とされている土地は、最も景勝な地とされ、自然の風致に恵まれていて、住宅地として評価が高い。
- このような地域に病院を設けると、患者が来ることで居住者に不快感を与える。
- 空気を汚染し、低地区域の水質を不良にさせる。
署名簿には、落合町大字下落合480番地から753番地の住民335名の名前が毛筆で丹念に書かれていました。当時、東京では関東大震災後の都市復興で広範囲に渡る大幅な商業化が進められていました。その中で、この地域は 辛うじて田園緑地帯として温存され、1924年 (大正13年) の町制施行により大勢の市民が移住して来た場所でした。これを思うと、この住民運動の意味が理解できます。また、住民が建設予定の病院を結核病院と思い違いをしていたことも次第に判ってきました。