マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

どうしてFMMに? シスター佐藤ミチ子の巻

-シスターの子ども時代は?

わたしは7人兄弟(男2人、女5人)の5女、末っ子です。小さい時に、姉を一人亡くしました。気がついた時は、姉・兄3人共、上の学校に行くために、都会に行っていました。休みの時に帰って来るだけでしたので、いつもは3人兄弟のようなものでした。中学校までは北海道の富良野の麓郷(ろくごう)に住んでいました。今は、『北の国から』のテレビドラマで有名になりましたが、町には、ちょっとしたお店と農協だけがありました。学校から帰ってくると、庭先に むしろを敷いて、ままごと遊びや、着せ替え人形をしたりして遊んでいました。周囲には、畑と山があり、小さい時は、スキーをよくしました。修道院に入ってからは、雪がこわくて滑れなくなりました。小学校の時、男子ともよく遊ぶおてんば娘と言われていました。田舎なので中学校までしかなく、中学卒業後、富良野高校に入り、姉が高校3年生でしたので、一緒に自炊生活をしていました。

-キリスト教に出会ったのはいつ?

高校1年のある日、姉に誘われて散歩に出たところ、ふと見るとカトリック教会がありました。教会がこんなところにある、と驚きました。しかし、教会が何かその時は知りませんでした。そこには、OFM(フランシスコ会)ベニス管区のイタリア人の神父様がいらっしゃいました。他に聖心愛子会(現在の聖心布教姉妹会)のシスター3人とコックさん・コックさんの子ども2人がいました。日曜日は幼稚園のホールで、週日は2階の小聖堂で、ミサと晩の聖体降福式がありました。

姉が卒業した後、5月に一人で教会に行きたくなり、行きました。ちょうど5月、マリア様の月で歌をうたい、ロザリオ、聖体降福式がありました。聖心愛子会のシスターがオルガンを弾いていて「小聖堂もきれいでいいなあ」と感じながら、5月いっぱい毎日行きました。祈りが何であるかは、わかりませんでしたが、そこにいることの安心感、守られていることを感じて、毎日行っていました。(そこにいたシスターが、藤沢の修道院に100歳で今もいらっしゃいます。) その後は、しばらく教会に行きませんでした。

一人暮らしになったので、同じように田舎から出てきていた友人に声をかけ一緒に住むことになりました。父が見つけてくれた家を借りました。そこは天理教の教会の離れでした。朝晩どんどんと太鼓をたたいて、お祈りをするところでしたが、私たちには、あまり太鼓の音は気になりませんでした。そこで2人の自炊生活が始まりました。

日曜日になると、友人はプロテスタントの信者だったので、プロテスタントの教会へ行きました。それなら私も行こうと思って、カトリックの教会に行くようになりました。神父様に「教会とは、どういうことをするところか、教えてほしい」とお願いして勉強を始めました。19歳の時、洗礼を受けました。親は「洗礼ぐらいは」と思っていたようでしたが、叔父や叔母たちは、その時すでにトラピスチン修道院にでも行くのではないかと、ひそかに心配していたそうです。

話は飛んで、私が13歳の時、兄が少女雑誌を買ってきてくれました。その中に黒い洋服を着た人が、不幸な子どもたちの世話をしている写真と記事が載っていて、いたく感動したことを覚えています。洗礼を受けた一つの動機は、その影響があったのかという感じがしました。しかし、その後、このことは思い出すこともありませんでした。

-その後の歩みは?

高校を卒業して、ちょうど春休みの時、札幌に住んでいた兄のところで、兄嫁が、はじめての出産なので手伝ってほしいと言われました。兄から「札幌の北の方の病院だよ。」と言われ、行ったところが天使病院でした。黒でなく白の洋服のシスターでした。1週間、姉の世話で、病院へ通いました。通って最後の時、シスターに「実は、ここの病院で働きたいのですけど」とお願いしました。院長様が「今、空きがないので、連絡してあげます」ということで麓郷に帰り、町の協会病院の事務所に勤めました。1年後、天使病院から「事務に人が必要なので、勤めたいかどうか」の問い合わせがありました。家族は「せっかく勤めているのだから辞めなくてもいいのではないか」とか、「本人が行きたいのなら、仕方がない」などといわれましたが、天使病院に勤めることに決めました。

事務所には、Sr.市川、Sr.マルタ、Sr.ベロニカ、Sr.長内などがおりました。事務、電話交換、受付などの仕事をしながら、毎日よくけんかをする姉妹方の様子を見ておりました。けんかが始まると廊下に出て、座って待っていたこともありました。こんな時「修道生活とは何かしら」と考えていました。

そこで、ほかの修道会についても考えるようになり、トラピスチン修道院に1週間、黙想に行ったことがありました。そこは “ 来客をもてなすこと ” が大切な勤めのように書いてありました。1週間、考えたり、知人の姉妹に会ったりして過ごしました。帰りに、院長さまから「気持が決まったら、いらっしゃい」と持ってくる物のリストを渡されました。

家に帰った時、「修道院に入りたいこと」を話すと以前から「修道院に入るのではないか」と心配していたようで「そらきた」とばかりに…。しかし、ちょうど時期を同じくして、尼寺の尼さんが30年位、尼寺の生活をしてから還俗したニュースが、週刊誌を賑わしていました。母は「母さんが年をとり、死んでからミチ子が帰ってきても、あなたを迎えてあげられないから、そんなところに行くのではない」とひどく心配して言いました。親にしたらそうなのでしょう。でも、FMMに入りたい気持ちが強かったので、私は「私で務まるか、修道院へ行って、務まらないなら帰って来る」という条件で、9月に修道院に入りました。今も続いています。いつも神様のお恵みに感謝しております。

-派遣されたところは?

修練期を終えて、札幌に派遣され天使病院事務所で10年働きました。毎年3月になると多くの姉妹方が動くのを見て「異動してみたい」と思うようになりました。いざ異動となると、多くの姉妹との別れが悲しくて、悲しくてよく泣きました。その後、熊本の待労院への異動が決まり、何の心配もなく喜んでいきました。3年後、再び札幌へ派遣されました。

その後、病院管理研究所に行くようにいわれました。研究生20名とともに、何やら学びました。自分の修道生活についても、考える時であったと思います。この一年を通して自分を見直し、私は、神様から声をかけられた、ほんの小さな出来事を見直し、祈り、自分は修道生活に召命があることを確信しました。決して疑わないこと、いつも神様が守ってくれていることを確信しました。

その後、神戸海星病院で9年間働きました。さまざまな難しい問題で悩まされ、疲れ果て、体調を崩してしまいました。その後、休みを頂き、3月に聖地巡礼をし、パリで、自分の航空券だけがロンドン行きであることを知りました。4月からロンドンで英語の勉強をして、7月にローマで会の精神を学ぶ「エマウス」というセッションに参加しました。充分な英語ではなかったのですが、皆に助けられて過ごしました。言葉の足りなさは、大変な苦労でしたが、多くの姉妹に助けられながら過ごした日々が忘れられません。感謝の時でした。

ローマでは、そのころ、院内の仕事で、働く人が足りなくて、サービス・テンポテールと言って、各管区から5年契約で奉仕しに来ている姉妹がたくさんいました。それで私は、コースの終わりに、当時ローマ本部修道院の責任者だったSr.高木に「ローマに残りたいこと」を話すと、会長Sr.モウラに話してくださり、日本の管区長に手紙を書くように言われ、ローマには奉仕をする若い人がいないので、お手伝いをしたい事を書きました。管区長からは「1、2ヶ月で帰りたいと言わないでください。ローマに残るなら、しっかりやってもらわないと困ります」と厳しい返事をいただき、喜んで残ることにしました。

ローマのグロッタフェラータでの使徒職は、食堂係、掃除、来客を迎えること、畑仕事、介護など、いろいろな奉仕の仕事をしました。共同体の姉妹の他に、研修参加者、旅行者など100人~180人と大人数でした。人数が多くても少なくても、何とかなるもの、ということを実感した毎日でした。スイカ7個を120~150人分に切るのは大変でしたが、慣れたらそうでもなかったですね。「あなたは小さいから小さいのをとって」「あなたは大きいから大きいのを食べていいのよ」足りないときは「半分にして食べて」と。みんな、何にも言わなかったですね。

80代、90代のシスターが「ミチコ、ミチコ疲れたでしょう。休んでおいで」といって杖をつきながら手伝ってくれました。ローマにいるということは、本会を直接に支えている、という自負をみんなが持っていました。どんなにつらくてもやるのです。創立者とフランシスコの精神を守ろうとするのでしょう。とにかくそこで驚いたことは、80代、90代のシスターが「ママン(創立者マリ・ド・ラ・パシオン)はこう言っていた」と言われるのです。ママンの精神が生きていて、本当に、生きた創立者の精神を感じました。私は、入会の時に、創立者について、あまり詳しく知りませんでした。しかし、ママンとフランシスコ会とのつながりが強いと言うこと、ママンの精神はフランシスコなしには考えられないことなど、本会の存在をローマで深めることができ、恵みの時でした。創立者は偉大な方ですね。最初はことばの不足から、話の行き違いなどもありましたが、いろいろ体験して、自分が本当に「自由な人間」になったと感じています。本当に恵みの時でした。

大きなことでなくても、ちょっとした声かけ、配慮で喜んでくださり、かかわりができていきました。このようにして、グロッタ・ローマでの14年は経ってしまいました。

私は、60歳になり日本に帰らなければと思うようになりました。けれども、ここの環境に入って、帰りたくない気持ちもあり、会長様とお話をしました。再養成の時をあげるから1年間日本に帰り、また戻りたくなったら、戻っていらっしゃい、ということで日本に帰り、生涯養成コースに行かせていただきました。この間に日本に帰ることに決めて、日本に残りました。

日本に残ることになり、戸塚、熊本、瀬田、再び戸塚、伊江島に派遣され、帰国してから17年になりました。修道生活56年になりますね。

-若い方、後に続く方に一言

モーゼのように、神様と、顔と顔を合わせて話すことができない私たちですが、神様の呼びかけを少し感じることがありますね。これが召命なのでしょうね。召命を感じた時、それを大事に育てて持っていて、「主よ、あなたがこの召命を、私にくださったのですね。」と毎日深め、呼ばれたことを信じて、ついていくことなのです。信仰はそのようなものと思います。マリアのエッチェとフィアット(お言葉通りこの身になりますように)ですね。毎日深めて生きましょう!!

今、沖縄の伊江島に派遣され、北海道出身の3人で新しい出会いが始まっています。どんなみことばを、毎日、生きるのでしょう。毎日が楽しみです。

沖縄の生活は、FMMとして、基地のあるこの地の苦しい、今も続く戦いに、祈りのうちに寄り添い、辺野古・高江の戦いを身近に感じながら、人々と共に生きています。ここに来ないと沖縄の問題はわからないですね。特に基地があるということは、いざ戦いが始まると、真っ先にやられるということです。日本の政治家の為に、特に外交において、早め早めに、自立した行動をとるように、祈っております。教会の為にも祈りますが、次に政治家の 為です。とにかく祈っています。

私は、振り返ってみると未信者の兄をとおして雑誌を頂き、未信者の姉を通して、教会に導かれ、未信者の兄嫁の出産によって本会を知らされ、「神様は私をいつも導いてくださっていること」を強く感じています。感謝にうちに!!

-今日はお忙しいところありがとうございました。