*シスターのご両親の事を教えてくださいますか?
私は東京の大森で生まれました。父吉章は貿易商でした。祖父が
海軍の「軍鑑総監」とかで「日本は将来、世界に進出するのだ」と言い、中学校からはマリア会の暁星でした。在学中はカトリックに一切無関心でしたが、たった一つ,信者で模範的な優等生の故岩下荘一師(後に復生病院院長となられた神父)が1年上の先輩で彼が毎日下校時に熱心に聖体訪問をなさる姿に「なぜ?」と疑問を持ち続けたそうです。卒業後、現在の外語大のイタリア語学科に進み、21才の時に、岩下氏を代父に受洗のお恵みを頂きました。母鶴子は横浜の根岸の生まれで静かな優しい人でした。母は結婚後、カトリック要理を勉強し20才の時受洗の大きなお恵みを頂いたそうです。父は1984年96才で、母は1943年46才で帰天しました。この両親の大らかな深い愛につつまれて育ちました。
*シスターのご兄弟の事を教えてくださいますか?
姉治子、兄吉太郎、姉2人(吉子と章子)、私マリア、妹アンナ、弟章(あき)次郎、弟鶴三郎、妹2人(松子と道子)の順です。皆、幼児洗礼です。子ども達はそれぞれに、両親や祖父母の名前から命名されていますが、私と次の妹は洗礼名がそのまま戸籍の名前で、マリアとアンナです。この頃、信者の家庭の子どもにこのような命名が流行っていたようです。アンナは病弱で若く
して帰天、鶴三郎も2歳で病気で帰天しました。三男の帰天を悲しみ、横浜に引っ越したと聞いたことがあります。長女は家の近くの、現在の横浜雙葉学園中学校1年に、私達姉妹四人は同じ学園の小学校に編入学となりました。
近くに友達もいないので遊び仲間は兄弟・姉妹でした。思い出としては庭のバレーボールコートで、父がアンパイアで家族が二組に分かれて試合をし、一番よく走り、ボールを打つのが上手なのが私でした。(後に雙葉でバレーの選手となりました)。次女の吉子と私はどこにでも一緒に行く仲良しでした。私が中学1年生の時、四谷雙葉にドッチボールで遠征した時も、勝利を共に喜び励ましてくれました。故弟章(あき)次郎(じろう)(神父)がネパールから帰国間もない頃でしたか、メールで「私たちの家庭はおだやかで明るく楽しかったネ。特に一番元気だったのは まあちゃんだったネ。」とあったので私は早速、「今は大人しくなったのよ」と返信したことがありました。
また、おせち料理はもちろんの事、大祝日の大御馳走もうれしかったです。特に、今でも流行っているでしょうか、元町喜久屋のケーキは子どもながらにおいしく、皆でよろこびながら頂いたことを思い出します。特長といえば母や長女が静かな性格でしたので、家の中は常にあかるい、おだやかなムードでした。
もうひとつ思い出すのは、私たちが楽しく遊びに興じている時、父がロザリオの祈りをしようと声をかける時です。私達はお互いに顔を見合わせ「今はゲーム中!」と大声で応えますが、父の「アヴェマリア」の祈り声が聞こえると、(わざとかしら、大きな声でした)私達は仕方なく祈りに参加しました。最初、不機嫌に唱えていた私達の「アヴェマリア」の祈りが、次第に穏やかで声が一つになった祈りになっていったことですね。私がFMMの召命を頂く道で一番不安で苦しかった時期、涙ながらにロザリオの祈りを唱えながら、一心に聖母マリア様に「私の道を開いてください」と祈ったこと、聖母マリアへの希望と信頼を深めながら、現在の私へとつなげてくださっていることを父に感謝しています。
*十人中七人のごきょうだいがシスターと神父様になられたのですね?
このような家族の中で幸せに成長させて頂いたのは、雙葉サンモール会(現在幼きイエス会)のマダム方の教育のおかげと感謝しています。当時、シスター方をマダムとお呼びしていました。
特にいつくしみの主のお招きを頂き、それぞれに奉献生活へと導かれました。たとえようもないお恵みに感謝・感謝!!弟章次郎が小1で、初聖体の準備はマダム(シスター村越)にして頂き、司祭としての召命を祈るように言われ、その祈りは、イエズス会入会で聞き入れられました。 長女は聖心女子大学の英文科から聖心侍女会へ、次女は歴史科(現在の史学科)卒業後、召命の黙想会にも度々参加していたので、祈りの内に同じ聖心侍女会へ入会いたしました。(後に仲良しの次女に私がサンモール会のシスターに入会を勧められた話をしましたら「自分には1度も声がかからなかったわ」といっていました。)次に弟章次郎が家じゅうの反対を押し切ってイエズス会に入会しました。その後が私です。そして3女が汚れなきマリア会へ、6女と7女は 聖体礼拝会のシスターになりました。現在、4人がそれぞれの修道会で日々賛美と感謝をいつくしみの主にお献げしつつ過ごさせていただいています。
数年前、弟神父の葬儀で、「遺族として感謝…」と申しあげましたら、「イエズス会が遺族ですよ…」とおっしゃられてハッとして、笑いまた深く納得いたしました。
*シスターのFMMとの出会いは何ですか?
子どもの頃から、私達、特に礼拝会に入った松子、道子、私は、「横浜一般病院」の小さな聖堂で祈るのが好きでした。「横浜一般病院」はもう今はありませんが、「国際病院委員会」経営の日本風の庭園もある美しい病院でFMMが委託され、シスター方が祈りのうちに働いておられました。現在のエリスマン邸のある山手通りを挟んで斜め向かいの横浜雙葉学園の辺りに、それはありました。
父がその聖堂のミサ(ラテン語)にあずかり熱心に祈っている姿を覚えていらっしゃるシスターと今一緒の修道院に私はおります。話を戻しますと、私達子どもにとって、美しい花で飾られ、ご聖体が顕示され、シスター方が拝礼なさっている清楚な聖堂の後ろの席で一緒にお祈り出来ることが嬉しくて、とても幸せでした。思い出話で妹達も、ここで献身的に働かれるFMMのシスター方の宣教者(ミッショネール)としての姿、はつらつとして明るい笑顔に「真の幸い」が感じられた。と、話しておりました。3人共にここでの修道生活を望んでおりましたが、妹達2人は同じご聖体礼拝の修道会「礼拝会」に入りました。一人は50歳で帰天、下の妹道子はボリビアに派遣され、幸せな奉献生活をおくっております。
*シスターのFMM入会への様子を教えてくださいますか?
また、お話がそれてしまいましたが、子どもの私もご聖体のまえでお祈り出来る幸せを感じでおりました。それから1949年頃の日本は、敗戦の惨めさから復興目指して全力投球の時代でした。当時の私は現実第一主義で、自分の将来のことよりも、戦時中のあらゆる欠乏から解き放たれ、衣食が満ち足りてきたことを喜んでいました。雙葉学園に奉職2年目のこと、校長のシスターから声をかけられました。「あなたは自分の将来について考えていますか?」と。
あまりにも今迄考えてもいないお言葉・おすすめに全く途方にくれてしまった私は、どうしようかと迷い、ついにいつくしみの主と聖母に、今迄の不熱心さをおわびしながら、「私の行くべき道を示してください」と必死に祈りました。もし私がサンモール会に入会の希望だったら大喜びだが、まだ将来について考えた事もない。この会に入会したら、恩師のシスター方に見守られ学校時代の続きのようでしょう。一番大事な奉献生活が全うされるかどうか等・・・否定的な感情で心は全く動揺の極みに…。そして一番恐ろしい事は、シスターから「どうですか?」との再々の問いがあることでした。私は、四谷の幼稚園時代からその時まで15年間お世話頂いたのに、「No」と言いきれるか?等々…。
「問われる前に、他の修道会に、殆ど知らないどこかに、入らせて頂くしかない。」と主に嘆願し「私の道を示してください!」と涙ながらに祈りました。そしてふと、お隣にある、有名な『一般病院』が目に入りました。FMM。この修道会は教育事業はしていないようだしシスター方は明るく、気楽に話が出来そうと考え、一日二日祈ってから、ついにこっそり一人のシスターに「私のような者でも入会させて頂けるか」と尋ねたところ「大丈夫よ。この会には誰でも入れるのよ。」ときっぱりと答えてくれました。やれやれと思い、次に「教育事業はどうですか?」と恐る恐る聞いてみると、「外国ではしているけれど日本管区は、病院やお年寄りのお世話や 福祉のことだけよ。おそらくこれからもしないはず」と、飛び上がる程のお答えに勇気が湧き、ついに、FMMの院長様(外人のミッショネール)に入会の件を(雙葉でのお話は全然しないで)申し上げると、彼女は目を輝かせうれしそうに「私はあなたのために10年間祈っていました」と。私は驚きのあまりに「どうして?」するとそのシスターは「妹によく似ているのです」と。私は生粋の日本人なのに…とためらいつつも、受け入れられて大喜びで、主のいつくしみのお答えに、ただ涙とともに感謝を捧げました。それから話はトントンと進み正式に入会許可を頂き、身も心も軽々と新しい人生の希望に一歩ふみだした思いだったのです。
ところが父の許可を受けていないことに気づき、(雙葉の件は一切言わず)入会許可について話すと、父は少し心配そうに、次のように反対したのです。「日本はまだこんなに安定していない。修道院もこのまま続くか、又は解散するかも…。家に帰されたらどうする?」と。私は返す言葉もなく、早速、修練長のシスター一杉にすべてをお知らせしました。一週間後、父をよくご存じのシスター一杉は拙宅に来られて、父と話したいとのお手紙をくださいました、父と話し合ったシスター一杉はついに「ではどのくらい、お待ちしましょうか?」と問い、父は「三か月」と答えたようです。それで(?)私は6月12日に入会と決定されました。1946年のことです。
入会を目前にした6月10日の晩、亡母から「6月11日」と2回も知らせる夢を見ました。私は いったい何が起こるのか半信半疑でした。11日の午後過ぎたころ兄が突然復員してきました。 家族全員は驚きと共に大よろこびとなりました。私は「母からの知らせは本当だった!」と、 心から感謝しました。もちろん、主と聖母にも! FMM入会の1日前のことでした。
兄の話によるとフィリピン作戦で捕虜となり、もう一人の上官と共に、裁判の結果、銃殺と決まったそうです。先に上官は銃殺され、兄が「その前にちょっと祈らせてくれ」と嘆願し十字を切って祈りはじめるやいなや、ストップがかかり「カトリック信者か?」とたずねられ「Yes」の言葉と同時に、全く友愛に満ちた態度に変わり、復員のために住所等凡てが調べられ、(言葉が出来たので)就職先まで紹介され、兄は驚きと喜びと感謝の中に家に着いたと話してくれました。家族は、主のお守りに感謝・感激でした。
さて翌12日の入会をアメリカの大佐が知り、「これほど嬉しいことはない。祝わなければ…」と立派な車に運転手が付きお迎えに来られ、父と兄と私を戸塚のノビシアまで送ってくれました。修道院ではアメリカ軍の大佐と共に志願者が入会したと大騒ぎになりました。これらのことは、私どもが計画したことではありませんでしたが、メール・メルセデス(修院長)はじめ修練長のシスター一杉のおどろき等は知る由もなく…想像におまかせいたします。入会させて頂いた私はアメリカの軍人に送って頂いたので「マリア」でなく「メリー」と呼ばれ志願期をはじめさせて頂いたのでした。この時一緒に入会したのは私を入れて3人でした。
*今 ご自分の修道生活を振りかえってどんなことを思われますか?
奉献生活70年になりますが、学校のない修道会だったから、と考えて自分ではこの会を選んだつもりでしたが、間もなく小学校も開設されて、そこへ派遣されました。神戸・福岡と海星女子学院に奉職し、その間に教え子だった方も今では、FMMの姉妹となった方もおられます。神様の作戦いっぱいでユーモア溢れる導きを感じ感謝します。
小学校で25年奉職し、50歳になって台湾・台北の教皇庁立輔(ほ)仁(じん)大学外国語学部日本語学科に派遣されました。今回はお話することができませんでしたが、日本語学科の学生達とカトリック研究会「霊泉会」の創設に関わり、彼らを通して神様のなさる豊かな出会いと実りに感動と感謝です。〝「霊泉会」の歌を作ろう!〟と替え歌でテーマソングを作って歌っていました。心の中には ♪ 慈しみ深き友なるイエスは… ♪ のメロディが今も響いています。このように人生の振り返りの機会が与えられ感謝です。
「一般病院」で私が声をかけて尋ねたシスターがいらっしゃらなかったら、あのお答えがなかったら…と思います。日々の暮らしの中にも小さなことや心の動きの中にハッとすることがたくさん隠されていて、神様を感じ感動、感謝です。このように幸せな奉献生活にお招きくださった神様に心から感謝です。
これからも若い方、人生の道を探しておられる方のためにお祈りいたします。
*Sr大木、長時間にわたりインタビューにお応えくださりありがとうございました。
伺ったほんの一部しか掲載出来ず、もったいない気がいたします。弟神父様、故大木章次郎神父(SJ)のネパールでの奮闘・活躍は、本や支援関連からも探すことが出来るでしょう。シスター大木とも相通じる神父様のおおらかな奮闘記を通して、ネパールの空のように心が寛くなった気がいたしました。