マリアの宣教者フランシスコ修道会は、世界宣教に捧げられた修道会です。南アフリカでミッションを続ける姉妹が、ミッションの様子を分かち合ってくださいました。
私は、出身国、コンゴ民主主義共和国では、学校で子どもたちを教えていましたが、数年前、南アフリカに派遣されました。南アフリカに到着すると、今までとは違った司牧の分野で活動することになり、新たな国、新たな使徒職に、期待と同時に不安な気持ちを抱いていました。
私が派遣された共同体は、ズールー語で“Esibusisweni”(祝福の場)と言う場所にあります。共同体に着くと、長い間この地方の司牧活動をしているSr.キャシー・オコナーが、これから私が関わることになるンプルジ地方の11の集会所に連れて行き、人々に紹介してくれました。
週日には、病人訪問をし、主日には一つか二つの集会所で行われる「集会祭儀」で奉仕をします。信徒のリーダーが司会をし、私たちがご聖体をお配りします。
毎日、多くの人々の家を訪問しますが、共同体に戻っても、その日に出会った人々の顔が目に焼き付いて離れません。それで、顕示されたご聖体の前で祈るときには、まるでその人々と一緒に主の前にいるようで、その人々を主の御保護の下にお捧げいたしました。このようなことを、2か月間Sr.キャシーと共に続けましたが、その後シスターは違う共同体に派遣され、私は一人になってしまいました。
私が一人で訪問し始めた時、それはまるで嵐の中でエリヤが天に昇ってしまい、一人残されたエリシャのような気持ちでした。言葉もわからない私に何ができるのでしょうか。出かける前に、一人のお母さんの元に行って、幾つかの言葉の読み方を教えてもらいました。しばらくの間、言葉の下に読み方やイントネーションを鉛筆で書いてから、出かけていました。
病人の家を訪問すると、家族皆が出て来て、どんな宗教の人も一緒に祈ります。私のへんな言葉や発音を聞いて、大笑いになることもありました。家の人に聖書朗読をお願いし、その後私がお祈りをしてご聖体を授けました。言葉ができない私にできることは、ほほえんで平和を伝えることだけでした。
もう一つの問題は目指す家に行けるかどうかということです。今まではSr.キャシーと一緒に行っていましたが、今回は私一人なのです。しかし幸いなことに、神様は、私によい方向感覚を与えてくださっており、どうにか病人の家に着くことができました。その頃は出身管区の修道服で、南アフリカ管区のシスターたちと違う服装だったので、多くの人々は私がFMMのシスターだとわかりませんでしたが、とてもよい人たちで、まるでわが子のように暖かく私を迎え入れてくれました。
彼らはよく“Sista, funda noma Isizulu uma Isiswati, sifuna kuluma nawe, sikucela indaba eyethu”(シスター、言葉を習ってください。私たちはシスターと話しをしたいし、問題を聞いてほしいのです。)と言っていました。不思議なことに、誰かが私に話しかける時、私の心と耳が開かれ、どうにか理解するこができましたが、それに答える言葉はまだわからず、話が終わると、いつも“Ngikutandazela”(お祈りします。)と言ったものでした。こんなやり取りを通して、言葉を学んでいきました。
現在の私の使徒職を紹介しましょう。私が働くドゥンデー教区では、病気や高齢のためにミサや典礼に参加できなくなっている信者たちをとても大切にしています。なぜなのでしょうか。それは、彼らが、大きな犠牲を払って教会を建ててきたからです。今は、病床にあり、歩くこともできない人もいます。司教様は、彼らのことを忘れないようにと呼びかけられました。それで、私たちは1か月に1回、その人たちの家を訪問しているのです。私たちは11集会所を4つのブロックに分け、毎週1つのブロックを訪問します。病気の信徒たちは、訪問を心待ちにしておられます。こんなこともありました。以前、私がワークショップに参加するために留守にしてしばらく訪問できない時がありました。帰ってくると一人の“gogo”(おばあさん)が、「シスターが来るはずの日にいらっしゃらなかったので、それから毎日、今日は来るかしらと思って、ずっと窓の外を見ていました」と話してくれたのです。
もう一人の“Mkhulu”(おじいさん)を紹介しましょう。彼の家を訪問したとき、神父様がいらっしゃったら、ゆるしの秘跡を受けるとおじいさんが言うので、ご聖体を授けずに家を出ました。すると彼は、私を追って来て、“Sista, uno uJesus la na?”(シスター、イエス様を持ってきていないのですか。)と言うのです。私は「なぜ」と聞き返すと、“Ngimfuna”(私はずっとイエス様を待っていたのです。)という答えでした。そのような信仰に感動し、家に戻って、ご聖体を授けました。その時、私は自分のイエスへの思いがどんなものなのか、反省させられました。「私はFMMとして毎日ご聖体の前で祈るけれども、このおじいさんのようなイエスへの飢え乾きがあるのだろうか」と自問しました。病人の家に行くと、悲しみや苦しみに満ちた表情が目に入ってきます。しかし、ご聖体を受けた後、あるいは共に祈った後、人々の顔は幸せそうで、喜びに輝くのです。
私にとってこの使徒職は大きな喜びです。この使徒職を通して、人生に多くの問題を抱えている人々や家族にさえ捨てられてしまった人々に自分を捧げることができるのです。政府から支援をもらっている人もいますが、それでも見捨てられたと感じているのです。
家族の中にも多くの問題があります。道徳上の問題、経済状況、泥棒、性的虐待など…。彼らの話しを聞くために多くの時間を割きます。ある程度の平和を感じられなければ、祈ることができないからです。誰かが帰天されると、まるで自分の家族を亡くしたようです。昼間訪ねた人のことが忘れられず、夜眠れない日もありました。
私たちは人々に教会の教えや習慣に従うように呼びかけています。例えば、主日には埋葬をしません。主日は、私たちの主イエスが死者の中から復活された日だからです。ですから、主日は喜びの日であって、お弔いの日ではないのです。家族はご遺体を教会に運び、葬儀ミサを捧げてもらいます。すべてが終わると、家族が口をそろえて「ありがとうございました、シスター」と言います。愛する人が尊敬をもって葬られたので、感謝しているのです。
私はここで、イエスが主であることを言葉や行いを通して、人々に宣言できることをうれしく思っています。人々の間におられるイエスと出会い、またご聖体におられるイエスにその人々を捧げ、ご聖体のイエスから力をいただき、また人々の元に出かけていきます。どこにいても主イエスが待っておられることを実感させていただく、この使徒職に派遣してくださった神に心から感謝しています。
Claudine Ilunga, fmm