数年前、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)から、「海外での医療活動を始めようとする人のための勉強会」へ招かれた。1998年から10年間、派遣されていたパキスタンで、文化、習慣、言葉の違いに戸惑い続ける私は、援助するより、助けてもらうことが多かったことを話した。参加者の中に、聖母大学(現在は上智大学の総合人間科学部看護学科)の卒業生がおられた。
「今日来たのは、わたしが学んだ大学の先生と同じ修道会のシスターが話をされると聞いたからです」と言う彼女からは、シスターHを、深く敬愛していることが伝わってきた。
Hは近年、体調を崩すことが多く、昨年は入院を余儀なくされた。お見舞いに行くと、ベッドのまわりに私物は極端に少なく、枕元には、自筆の「黙想ノート」があった。入院したため、彼女は予定していた黙想に行けなくなり、気落ちしているかと思っていたが、「ここ(病院)でゆっくりさせてもらっているし、黙想ノートがあるから充分!」と笑う。心配したこちらが拍子抜けするほど、あっけらかんとしていた。
こだわりのなさや、打たれ強さがあり、もの静かで大人しい外面の底には揺るがないダイヤモンドのごとき核心があることは、日頃の振る舞いや言葉からもわかっていたが、学生さんの中に培われた深い親密さを生み出したものは何だったのだろうか? メモ帳を片手に、彼女にインタビューした。
Hも聖母大学(当時は短期大学)で学んだ。実習の時、「患者さんが喜んでくれる」体験が内面の促しとなり、「看護師になりたい」という思いが強まった。学生寮でカトリックに触れ、人間を越える存在、神様がいることを知り始めた。煩わしい人間関係や葛藤のある寮生活の中で、そうだからこそ、「生きる目的は愛」であること、目の前の相手を大切にすることを、意識して生き始めた。卒業後、札幌にある天使女子短期大学(聖母大学の姉妹校)で保健師と助産師の資格を取り、天使病院での勤務後、同大学で教職に就く。次々に与えられるチャンスに応え、大学で教鞭を執っていた彼女がシスターになったのはなぜだったのだろう? それは一人の患者さんが亡くなったことに関係がある、と言う。
「その方を呼ばれたのは神様。(わたしも)神様の望みに答えたい」と思った。
修練院(シスターとなるための2年間養成所)を出たあと、シスターとしての生活が始まった。その中で、「イエスに呼ばれている」確信がさらに深まっていった。
「みことばは人となり…」(ヨハネ福音書1:14)を黙想していた時、「わたしと同じになりたい」というイエスの熱望を体験した。「来てみなさい」(ヨハネ1:35~)とイエスは言われる。「わたしと同じように感じて、いっしょに生きて、同じになって!」と望むイエスと一つに結ばれて、御父のみ旨を行うことを望んだ。
イエスが自分の中にいなくなったように感じた時期もあった。それでも真っ暗なトンネルの出口に小さな光があることを信じていた。「イエスとひとつに結ばれ、日々捧げたいのに、日常のごたごたに気を取られていたとき、『わたしが引き受けるから、一緒に捧げよう』と、イエスが言ってくださった」
イエスが教えてくれた主の祈り(マタイ福音書6章9~13節)では「私たちの罪をおゆるし下さい」と祈ることを教えられ、「いっしょに生きよう」という招きに応えきれていない自分をゆるしてくださっているイエスと再会した。
「一緒に使命を果たして欲しい。一緒に人々に関わって欲しい」と言われ続けた。これが使命だと確信した。「イエスは変わらない!」信頼はさらに増した。
Hは平成1年より25年間、母校、聖母(短期)大学で助産師、看護師教育に携わった。学生との関わりの中で、また助産指導の場で学生とともに出産に立ち会った。
「『あんなに苦しい思いをして、母は私を産んでくれたのだ。だから自分を大切にしたい』と話す学生に、自分の方こそ教えられた」
「『赤ちゃんのことを思うとがんばる力がでた!』という母親からも導かれた」
「他の人のために生きることを学生から学び、学生にも伝えて来た。愛される存在である私、望まれ、生かされている私に気がつかせてもらう生涯であった」
「世の中には『こうありたい。ものを持ちたい、権力やお金が欲しい。幸せでありたい』と思う人が多いが、ありのままの自分を認めることこそ大切だと思う」
学生に「あなたはどうありたいの?」と、よく聞いたそうだ。神様はその人に内に望みをおこさせ、実現させてくださるからだ。
「失敗した時にうなだれていると、『そうせざるを得なかったね』と、語りかけてくれた。麦の穂を摘んだ弟子をかばったように、いつもイエスはかばってくださる」
ある時は、祈りの中で、「なぜ私を迫害するのか?」と問われ、Hは驚いて聞き返したそうだ。
「いつわたしがあなたを迫害したでしょうか?」
「自分を責める人は、わたし(イエス)を迫害しているのだ」とイエスに言われた。
シスターHからは、彼女とともに生きているイエスの息吹が沸き出し続け、私は圧倒された。学生たちが日々の悩みを解決していく中でどんな助けを得ていたか、想像しても足りないような気がする。
愛されたい人が多いのに、無条件に与えられる愛を受け入れるのは簡単ではない。何かを与えたから、自分には価値があるから愛されている、と考えがちである。シスターHは、無償で与えられている愛に自らを開き、学生たちにも与えた。
『私自身が(神に愛されているという)事実を体験しているからこそ、あなたに与えることができるのです。私たちが神に愛されているという賜物をお互いに分かち合うこと、これが友情のすべてです』(”Life of the Beloved”「愛されている者の生活」:ヘンリー・ナウエン著より引用) (Sr.M.O)