北広島修道院のはじめ - 札幌修道院の分院として
1928年 (昭和3年) 8月16日、病院の落成式2週間前に、札幌修道院から派遣されてきた2名のシスタ-は、数名のオブラ-ト志願者と一緒に、病院内で共同体の生活を始めました。この日が北広島修道院の創設日とされていますが、札幌修道院から分離独立して正規の修道院となるまでの6年間は札幌修道院の分院として同じ院長のもとにおかれていました。
広島天使病院の開設 - 札幌天使病院の分院として
広島村に小規模の病院を建ててほしいとの要請が再燃したのは、診療所が開設して間もない1927年 (昭和2年) 8月のことでした。間野家の長老を先頭に村会議員8名が村長を伴って札幌修道院を訪ね、アポリナリア院長に病院建設を要請しました。これがキノルド司教によって北広島に建てられる病院の建設プランの始まりでした。院長と司教が頻繁に調査し検討した結果、サン・ミッシェル会長の承認のもとに、キノルド司教の土地と資金の提供を受けて、教会の敷地内に建設されることが決まり、医者も見つかりましたが、水面下では反対運動が起きていたのです。村長や議員たちはこの話が中断されるのではないかと恐れ、繰り返し修道院と教会を訪問していました。 このような騒ぎの中にあっても、キノルド司教は計画通りにことを運び、その翌年1928年 (昭和3年) 3月23日に定礎式を行いました。建設反対運動が表面化したのは3月27日のことです。修道院日誌はこう伝えています。
広島村では、他の宗教家の中に、私たちがこの村に入るのを我慢出来ず、なんとかして私たちにやっかいな問題を引き起こそうとしている人たちがいます。村人が私たちの小さな事業にますます夢中になり、私たちに厚意と同情を寄せているからです。村の婦人たちは、病院続きの医師住宅に一日も早く医師夫妻を迎えて村の生活をしてほしいと強く望んでいます。
実際、村では病院建設に関して村民の話合いの場がもたれていました。村人たちは診療所の存在に大満足で、反対運動が起きていることを非常に残念に思っていました。神社や寺の関係者の中にも反対運動に協力することを拒否した人が大勢いたのですが、ある雄弁な反対者だけは最後まで闘い抜こうとしました。演説や新聞で公に反対し、役所には許可しないように運動してまわりました。家の一軒一軒を訪問しては建設のために募金した人を叱責したり、説教して反対の署名を強制したりしましたが、結局署名は4,000名のうち250名しか集まらず、とうとう札幌市と北海道庁にも働きかけました。それも逆に役所から「病院建設は素晴らしい計画で、誰も妨害することは出来ませんよ。広島村だけでなく隣村の人たちにも喜ばれることでしょう」と言われたのでした。
カトリック事業に好意的な村人を支えその実現に尽力した人の中に、開村の父・和田郁次郎翁がいました。執拗に反対するこの雄弁家の口を封じたのも和田翁でした。この反対者が最後の手段として応援を求めに来た時、和田翁はこう言って追い返したというのです。「天使病院の悪口を言いに来るなら、二度とこの家の敷居をまたがないでくれ。病院の建設は私の人生最後の喜びなのだ」と。和田翁は長老で病身でしたが、住宅に近い建築現場に朝な夕な姿を見せ、完成するのを楽しみにしていました。時には「患者の慰めに」と自発的にシャベルやつるはしを持って若木を植えている村人たちを励ましていたのです。6月には、東京修道院を創設するために日本滞在中のクリゾストム管区長を広島村に迎えた時も、和田翁は村人と一緒に管区長を駅で迎え、正式な歓迎会にも参加しました。しかし、落成式を待たずに病床につき、度々見舞に来てキリストについて話していた姉妹に「シスタ-様、私のために何かできるでしょうか?私は間もなく 死にます。私も 天国へ行きたいのです。」と 自ら洗礼を望み、その恵みを受けました。そして、11月に「私のすべてをキリスト様のみ手にお委ねしました」と言い残し、静かに天国へ旅立ちました。村葬は10年前に村民の総意で翁の彰徳碑が建立された広島神社で行われましたが、その翌日に教会で葬儀ミサが捧げられ、大勢の信者が祈りに集まって来ました。
1928年 (昭和3年) 8月30日、村役場の希望で、待望のカトリック病院の開院式が近辺から大勢の若者たちが集まるこの日に行われました。数日前から準備に取りかかり、キノルド司教は150通もの招待状を書き、村の青年や教会の信者たちは餅つき、弁当作り、会場作りでおおわらわでした。落成式の朝、3つのミサが小さな教会で捧げられ、老いも若きも声高らかに歌う喜びの歌が丘一面に鳴り響きました。ミサが終わると、まるで村祭りの時のように大勢の人が病院見学に押しかけ、賑わっていました。やがて、札幌から汽車が到着し、大勢の病院関係者や招待客が村長や村の主だった人たちに案内されて祝賀会場となった司祭館に姿を見せました。この席で述べられた司祭の祝辞に次のようなものがありました。「この広島村には、特別素晴らしいことが3つあります。 和田さんという人が模範的な村を創設したこと、この村には放蕩する場所が一つもないこと、カトリック教会と常任司祭がいること、それに今日はもう一つ新しいことが付け加えられました。それはこの村に模範的な病院があるということです」と。祝辞の後、敷地一杯に群がっている人や線路や畑の方まで長い列をつくっている人の一人一人にお祝いの「餅」が配られました。招待客は、引き続き司祭館で食事のひと時を過ごし、病院で盛大な儀式に参加し、最後にバラ色の美しい風呂敷で包んだ手作りの「お弁当」が手渡され、それを手に 駅で村人の見送りを受けながら家路に着きました。病院の方は夕方まで雑踏でごった返しましたが、青年たちが上映した映画は、娯楽の少ない村人の気分転換にもなりました。この日の最大の喜びは、村、教会、本会が一体となって協力し喜びを共に分かち合えたことでした。
こうして、村人の善意と信徒の協力、そして札幌天使病院の支持のおかげで、10床の小さな「広島天使病院」が、法的には「札幌天使病院分院」として開院されました。病院が建つ教会の敷地は非常に広大な原野で、その中を汽車が走っているという感じでした。周囲には神社と小学校と精米所だけしかない寂しいところでしたが、病院が開拓当初に開通された江別・恵庭間の道路沿いにあるので、遠くからも患者たちが馬車で運ばれて来ました。シスタ-たちが誰をも親切に受け入れ世話をするのを見て、建設の支持者だけでなく反対者も来るようになり、一層村人たちから喜ばれる存在になっていったのです。特に、診療費を払う金銭も無い貧しい人たちから非常に喜ばれました。その多くは、治療費のかわりに畑から取ってきた農作物を置いていきました。1930年 (昭和5年) 8月より、姉妹たちは医師に付き添って隣村の島松に設置された診療所へ週2回出かけることになりましたが、この診療所は自ら住宅の二室を提供した村長の招きで実現したのでした。宣教分野が島松にまで広がると、広島病院の患者数も増加していきました。札幌修道院の年次報告によると、開院後3年目の入院患者数167名、受洗者数47名、島松診療所では1日の患者数15~20名、年間の受洗者数30~35名でした。