天使院印刷所の開設と出版活動
図らずも、日本にはまだカトリックの印刷所がない時代に、生前創立者が切に望んでいた宣教地における出版活動が、北国の札幌で始まろうとしていました。札幌には既に1916年(大正5年)に、キノルド司教は、広大な北海道に点在する信者の信仰教育のために、フランシスコ会の出版事業として「光明社」を創設し、ガリ版刷りの週刊紙「光明」やパンフレットを発行して信徒の家庭に郵送していました。ところが、その活動が週刊紙「光明」やパンフレットの発行に限られていたので、キノルド司教はぜひ印刷所を作りたいと思い、札幌修道院のアポリナリア院長に本会の協力を求めました。アポリナリア院長も、天使病院の患者の間で「光明」がカトリックの教えを知らない人たちにも広く愛読されていることから、出版事業の重要性を感じていました。また、印刷所を開けば、オブラ-ト修練者の養成の場にもなると考えたのです。双方とも同じインスピレ-ションに導かれて、キノルド司教は自らFMMのサン・ミッシェル会長に要請の手紙を書き、院長もフランシスコ会の出版事業に協力したい旨を会長に伝えました。会長は 直ちにこの要請に応えて、ケベックの修練院にある印刷所を皮切りにベルギ-・ブリュッセルの印刷所で4年間働いたことのある経験豊かなカナダ国籍のM.ウスタ-ズを札幌へ派遣しました。こうして創立者の夢は、ヨ-ロッパとアメリカだけでなく、極東の日本でも実現される運びとなりました。これが1927年(昭和2年)に慎ましくスタ-トを切った札幌天使印刷所のはじまりです。印刷する場所も人も 機械も用紙さえもない貧しいアトリエが、どのようにして印刷所にまで漕ぎ着けたのでしょうか。M.ウスタ-ズの残した記録をもとに産みの苦しみを辿ってみることにします。
1927年(昭和2年)3月末、M.ウスタ-ズは、オブラ-ト修練者に福音宣教に奉仕する出版活動の手ほどきをするため、札幌に到着しました。早速日本語の勉強にとりかかりますが、直ぐ厚い壁にぶつかってしまいます。その難しさは予想以上のものでした。わずか26しかないアルファベットとは異なり、無数にある文字、つけ方で全く意味が変わる点や丸、漢字・カタカナ・ひらがな・ロ-マ字、何もかも初めてのことばかり、印刷ともなると複雑極まりないことでした。それに印刷に必要な物も皆無に等しく、印刷開始の可能性がないように思えました。それでも、神のお望みなら必ず不可能も可能になると信じつつ、忍耐強く 必死で言葉を学んでいったのです。神の望みがはっきりしたのは5月も半ばのこと、街の印刷屋さんが新装開店を前に古い印刷機械や用具一式を売り出すというのです。早速 出かけて行ってみると、驚いたことに非常に古風で粗末な手動式機械、無数の文字をはめ込んだケ-ス付の植字、数種類の裁断機が乱雑に置かれていました。印刷の初歩としてはこれだけあれば十分と、5月28日にリヤカ-で運び、修院内のアトリエに納め、小さな印刷所ができあがりました。これが宗教書を出版する日本最初のカトリック印刷所です。それから数週間というもの無我夢中で学習、この善良で人の好い印刷屋さんは毎晩のように修道院に来てはシスタ-たちに機械の使い方、用具の説明、印刷の仕方を教え、漢字・カタカナ・ひらがな・ロ-マ字・大文字小文字・数字や記号などを含めると全部で5~6万ある文字の分類を手伝いました。将来この印刷所を支えるオブラ-トの誓願者たちもこれに参加しました。
6月、早くもキノルド司教から最初の注文がきました。マニフィカトとアベ・マリアの印刷です。手回しの機械が大活躍、しかし、印刷の仕上がりはひどいものでした。こんなことでは「天国のママンにこのアトリエを 喜んでいただけないかもしれない」と恥ずかしくなったと記録されています。それでもフランシスコ会からの注文は途切れませんでした。次々とキノルド司教から注文を受けました。「札幌知牧区の統計」の正式な印刷の注文です。その後も引き続きフランシスコ会から「光明」の付録や手紙の注文があり、アトリエは細々ながら前進していきました。
2年目の1928年 (昭和3年) は、フランシスコ会小神学校で養成された北海道最初の日本人司祭の叙階式の案内状7千通の印刷と8ペ-ジの「光明」の増刷で始まりました。一字一字と格闘し、一枚一枚刷り上げていくので期限をはるかに過ぎてしまい、どちらにとっても「忍耐」のいる仕事でした。フランシスコ会としては徐々に「光明社」の印刷をFMMに一任したいとの考えでした。はじめてモ-タ-付の機械を購入、「アスンタ」と名付けました。修院中が印刷用具でごった返し、機械の音が響きわたる始末、皆は慣れない手付きで植字に無我夢中、いざ印刷となると寒さで機械が固くなり、インクも用紙もなかなか乾かず、刷り上がりが悪く「神父様方はもう注文してくださらないかもしれない」と落胆することもありました。それでもフランシスコ会からの注文は途絶えることがありませんでした。そうこうするうちに「光明」の仕事も定着していったのです。こうしてフランシスコ会の兄弟たちの忍耐と寛大さのおかげで、シスタ-たちは次第に作業に慣れ、当初の困難など忘れるほどになりました。年の終わりには、子ども用要理教本、洗礼志願者用祈祷書など本の注文に挑戦するほど進歩していたのです。
3年目の1929年 (昭和4年)、信徒用祈祷書をはじめ楽譜付の讃美歌集、本会用にラテン語と日本語の対訳「聖母の聖務日祷」の印刷製本に成功しました。4年目の1930年 (昭和5年)、印刷だけでなく製本の仕事も増えたので、この年から外部の若い女性だけでなく障害者や失業者も職員として雇うことになりました。機械と用具の強化も必要になりましたが、札幌には印刷や製本用具を扱っている店が見当たらず 入手は非常に困難でした。幸いにも、店を探し回っている時に遭遇した婦人から「東京に本店のある店が札幌に開店された」と聞いたので、この「天使」の導きで用具を購入することができました。それでも 印刷機械までは売っていませんでした。またも幸運なことに、東京出張中の「光明」担当のフランシスコ会司祭から「印刷屋の信者が印刷機械を売り出し中」との知らせが入ったので、機械も購入することができました。こうして、8月18日、創立者の保護の聖人である聖へレナの祝日に、待望の機械が東京から運送されてきました。それで この機械は「ヘレナ」と名付けられました。それからというもの、「アスンタ」と「ヘレナ」がフル回転し、注文も着実に増え続け、修道院はすっかり印刷所に変身してしまいました。
1931年(昭和6年)、東京で開催されたカトリック出版社の総会で、地方紙を廃刊し全国向けの週刊紙「日本カトリック新聞」一つに限定すると決定されました。これが現在の「カトリック新聞」の前身です。全教会がこの新企画に協力するために週刊紙「光明」も廃刊されることになりましたが、「光明社」の名のもとに新聞以外の宗教書の刊行は続行されました。天使印刷所はこれに対応するために必要な機械や設備を購入し、手動式を電動式に変え、新しい分野の印刷製本に乗り出しました。祈祷書、楽譜付の讃美歌集、聖歌集、要理の本、クリスマス・カ-ド、年賀状、カレンダ-、十字架の道行、フランシスコ会第三会の規則、ラテン語の本、辞書、名刺、案内書など、教会やフランシスコ会からだけでなく、大学や学校からも、また、道内だけでなく 横浜や東京の教会や修道会からも注文がくるようになりました。特に、美しい色彩、イラスト、創意工夫をこらした印刷と製本は芸術作品として高い評価を得ていたのです。細々と印刷所の形を整えていった「天使院印刷所」は、1934年(昭和9年)に建物を新築して一層発展していき、創設以来本会のアトリエが本来備えていた女性、障害者、失業者に仕事を提供する「授産所」としての要素を保持し続けました。