「天使の聖母」札幌修道院の創設
1908年8月31日、夜8時頃、本会の7名の会員が ベルリオ-ズ司教に伴われて 待望の目的地に到着し、札幌修道院の創設に向かいました。札幌駅では パリ外国宣教会のラフォン師とビリエ師を先頭に 信者たちが 手に提灯を持って 一行を迎えたと言われます。開拓地・札幌にはプロテスタントの外国人宣教師や宣教女が多く住んでいましたが、カトリックの修道女の姿を見るのは初めてのこと、信者たちの興奮もひとしお大きかったようです。一行が 赤ら顔で 両手に荷物を一杯 持って現れると、信者たちは 待ち構えたように その荷物を受け取り、駅から20分ほど歩いた所に新築されていた修道院に向かって動き始めました。広々とした畑の向こうに 赤々と電気のついた家が見えてきました。これが仮に用意されていたFMMの札幌修道院です。家の前では 聖フランシスコの兄弟が住まいの準備を万端整えて 姉妹の到着を待っていました。この兄弟たちのおかげで、北国に新しく開かれるFMM修道院には 既に「ご聖体」が安置されていたのです。姉妹たちは「主の家」に招かれたことに深く感動し、この質素な家で「貴女清貧」と共に生活できることの満足感を味わいながら、聖フランシスコの兄弟によって祝福された家に入り、イエスと天使の聖母に感謝しつつ、長い旅の疲れを癒していただいたのでした。
フランシスコ会と共に始まる貧しい宣教地での生活
その翌日、ベルリオ-ズ司教は、修道院の祭壇の祝別を終え、この共同体の宣教生活に必要なことを全て取り決めて 仙台へ出発しました。つまり、この新しい共同体の保護者として ヴェデセスラウス・キノルド師ofm、聴罪司祭にはモ-リス・ベルタン師ofm、日本語の先生として教会の助任司祭ビリエ師MEPが指名され、事務連絡のためには主任司祭のラフォン師MEPが度々 共同体を訪問することになりました。「教会」と言っても、信者や善意の人の寄付で建てられた「伝道所」の2階一室を仮聖堂に使用していた小さな「教会堂」でしたが、広大な札幌地域では唯一のカトリック教会でした。ラフォン師は市内とその近郊を巡回し、ビリエ師は 結核に倒れて以来 長年続けてきた巡回の旅を断念して自室で教理を教える毎日を送っていました。この二人の司祭は 函館と室蘭を除く北海道全域を受け持ち、広大な地域に点在している開拓移住者の信徒のために 徒歩もしくは馬で巡回していたのです。開発途上にあった北海道では、札幌でさえも 至る所で開拓工事が進められていたために住所も定かではありませんが、フランシスコの兄弟たちの家も、FMMの修道院も、教会が建っている北1条東6丁目から歩いて7〜8分ほど離れた場所に位置していました。これが当時の札幌宣教地の実態でした。
9月13日には共同体で初めてのミサと聖体顕示がキノルド師によって行われました。この日、小さき兄弟会の家に初めて招待されました。この粗末な借家で 3名の司祭と1名の修道士が 聖フランシスコの兄弟に相応しく非常に簡素で貧しい修道生活を送っていました。生活がどれ程貧しくとも「聖体の側にいると、故郷に帰ったような気がするので みな 心楽しく満足した」という兄弟の言葉は、そのまま 姉妹たちにも当てはまるのでした。その3日後、兄弟たちは 北15条西1丁目にある借家へ引っ越していきました。それは、10月より札幌の北部地区とその周辺の司牧をフランシスコ会が受け持つことになり、兄弟の人数も二倍になるため大きな住いが必要とされたからでした。司教は、将来性のあるこの地域を小教区の一つとして認め、その司牧を全面的にフランシスコ会に委ねたのです。当時 5〜6名の信者しかいなかった小教区ですが、フランシスコ会にとっては 再来日後 初めて受け持つ司牧活動の舞台となった教会でした。
やがて、姉妹たちの修道院にも 信者たちがミサと礼拝に参加するため 度々 来るようになりました。姉妹たちは、毎日のミサと礼拝によってこの地に存在することの重要性を 日に日に実感していきましたが、それと同時に この開拓地で最も貧しい人たちのために施療院を開く望みを失うようなことはありませんでした。それどころか、思いがけなくも身に降りかかってきたビリエ師の看護がこの思いを更に強くしました。9月のある日、姉妹たちは、信者から病状の急変を知らせるメモを受け取ると 直ちにビリエ師の病床に駆け付け、その看護に 昼夜を問わず 専念してきたのです。9月26日、ビリエ師は とうとう天国へ召されましたが、最後まで フランシスコの兄弟姉妹が札幌へ派遣されて来たことを喜び、 全身で感謝の意を表し、自らもフランシスコ会の第三会に入会していました。28日には 司教代理のシャンボン師によって 葬儀ミサが荘厳に捧げられました。ビリエ師は 札幌を最後の安息の地とした最初のカトリック司祭でありフランシスコ会の第三会員でした。司教は 新潟で起きた大火でその地区の教会と修道院が全焼したためにこのミサには参加できませんでした。