マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

Sr.マリア・ヨゼフィナ 村松直子の巻

*キリスト教との出会いは?

私は静岡県出身で、4人きょうだいの一番上の長女として生まれました。家は禅宗の熱心な檀家でしたので、子供の頃は朝仏壇に必ずお線香をあげ、お経も覚えていました。両親は、いわゆる「耶蘇教ぎらい」だったので、キリスト教との接点はまったくなかったのですが、私が小学6年生のとき「十戒」という映画が上映されていて、なぜか父が家族みんなを連れて観に行ったことがあったんです。私には意味が分からず、紅海を渡るシーンとか、とにかくあのスペクタクルがすごい…ということしか残っていなかったんですけど、父は「父母を敬え」を教えている十戒を観せて親孝行を学んでほしかったと言っていました。親としての父の意図を使って神様がすでに働きかけておられたのでしょうね。それから、子どもの頃は病弱の祖母と一緒に時々ラジオを聴いていました。あるとき「人生読本」という番組で井深八重さんのことを紹介していたんです。子ども心にも「こういう生き方ってすごいなぁ」と思いましたね。それで自分も何か人の役に立つ仕事がしたくて、薬剤師になりたいという夢を持つようになりました。

*  洗礼はいつ、どんなきっかけで?

子どものころからずっと仲の良かった友達が中学校からミッションスクールに行ってしまい、少し寂しい思いをしたのですが、中学2年の頃に彼女が洗礼を受けたと聞き、「ああ、やっぱり彼女は耶蘇にかぶれてしまったんだ。私は行かなくって良かった〜!」とあの時は心底思いました。当時は全身真っ黒い修道服を来たシスターたちを時々見かけることがあり、何となく奇妙な印象があったんでしょうね。「この人たちは人間だろうか?何か別の生き物?」などととても変な感覚で遠くから眺めていたことを思い出します。それが、高校2年生の時にその友達が突然訪ねてきて、自分も薬科大学を受験したいので、一緒に勉強しようということになり、また色々な話をするうちに、彼女からルルドの奇跡の話を聞いたりしたのですが、私は「やっぱり宗教っておかしい!」とますます懐疑心を強めていきました。しかし、そうこうするうちに今度は「シスターのところに一緒に行こう」と彼女に引っ張って行かれ、そこでとってもやさしいシスターと出会ってしまったんです。そしてどうにも断りきれず、そこに毎週土曜日に通ってカトリックの教えについての勉強を受けることになってしまいました。その時勉強したテキストの最初の問答に「人間とは何ですか?」「人間とは霊魂と身体からできています。」なんていうのがあって、「そんな簡単なもんじゃない!」と反発しつつも、シスターの人柄に惹かれて2年間通い続けました。
その後、突然友達が薬科大学の受験をしないと言い出しました。「一度だけの自分の人生をもっと徹底的に他人のために使いたいから、看護師になる。神様にすべてをささげるために修道院に入ることも考えている。」と言われて、私はものすごくショックでしたね。高校生なのにそんなふうに真剣に人生について考えて進路をきめていくということが驚きでした。
それから、それぞれに東京の大学に合格したので、もうシスターとの勉強も終わりにするつもりだったのですが、今度は東京の修道院のシスターを紹介されて、結局大学生になってもまた続けて通うことになりましたが、正直洗礼を受けることは考えていませんでした。そのくせに、大学1年の時、同級生が「カトリック研究会」に入っているということを聞き、その後ひょんなことから、洗礼も受けないままカトリック研究会で部長になった彼女と一緒に、副部長までやるハメになりました。
私は小さい時から「なぜなぜ?」という子どもでしたので、なかなか素直に受け入れられずにいたのですが、大学1年の化学の時間のある時、「化学は、存在する物質やその原理、仕組みを人間が発見し、人間はそれを使って新たな物質を作りだしていったりする現象の世界に過ぎない。物質や原理や秩序を生み出した存在があるはずだ..」との考えが浮かんできたんです。それから、宇宙の展覧会に行ったときに「私は永遠から誰かから愛されている!」という感覚が自分の深いところから湧き上がるのを感じてびっくりしたことを今でも鮮明に思い出します。そして宇宙も化学も人間も「真理はひとつだけ」という確信と、愛されている存在としての「私」を認識するようになりました。それまでは「カト研」の神父様やシスターとも口論したことも多々ありましたが、だんだんと、自分の今までの宗教に対する姿勢は間違っていたんじゃないかと思うようになり、「もう神様に頭が上がらない!もう洗礼を受けるしかない。」と意を決してシスターに話したところ、さすがにシスターは半信半疑でしたね。すでに大学3年になってました。その後、シスターから両親にきちんと話すようにと言われ、夏休みに帰省した際に話したら、「ご先祖様に顔向けができない!」と頭から火を噴いて怒られましたが、もともと私が言い出したら聞かないこともわかっていたし、何回か話し合ううちに根負けして、「修道院には入らないこと」という条件付きでゆるしてくれました。そしてその年のクリスマスに受けた洗礼式には母が出席してくれました。霊名を選ぶにあたっては、神様への絶対的な信頼(マリアのことで苦しんだにちがいないのに!)を持ち続けたヨゼフの姿にいつも惹かれていたので、ヨゼフィナにしようと思ったのですが、将来結婚して聖家族を作りたいという思いから、マリア様の名前もいただいて、マリア・ヨゼフィナを選びました。

*  修道生活に入ろうと思ったのは?

大学卒業後に私は故郷に帰って県立病院で薬剤師として働いたのですが、「カト研」で一緒だった同級生は聖母病院に勤めていました。ある時その同級生から「戸塚の聖母の園というところで黙想会があるので来ないか」とお誘いがあったんです。黙想会ってどんなものかと思って初めて参加してみたら、そこでFMMのシスターや修練者たちと出会い、とても生き生きとして「ああ、人間なんだ!」と妙に感じたんですね。それでも自分は当然結婚するつもりだったので、私には関係のない世界だと思っていましたが、その時同級生がすでに入会希望者になっていたことを知りました。それ以来、シスターたちの「一生を神に賭けて生きる」という生き方が私のおなかの底の方で何となく居座っていて、それを追い払えば払うほど浮かんでくるようになりました。そのうちに「私は本当はどうしたいの?」という問いと一緒に、「神様は私に何を望んでいるんだろう?」という思いがどんどん強くなってきてしまい、打ち消すことができなくなってしまいました。そして「神様が私に何を望んでいるのかがわかったらそれに従うから私にわかるように教えてください」と真剣に祈るようになりました。そのとき私は、それがわかるためには自分が持っていた様々な関わりを一旦切らなくては、と考え、適当な理由で両親をごまかして再び東京に戻り、あるカトリック病院で勤めることにしました。
家を出てきた最初の晩は寂しくて、どうしてこんなことを…と後悔したのですが、それから1年間勤めました。その間、よく相談にのって、神様の私への望みがわかるように一緒に祈ってくれる他の修道会のシスターの存在もあったのですが、「まことの智にいたるまで」を読んで、悩んでいたフランシスコの叫び、「神が神でおられる!それだけで充分!」に強い衝撃を受け、「わが神、わがすべて」という彼の生き方に強く惹かれました。またちょうどその頃告解した時に、神父様からの諭しの言葉として「フランシスコの平和の祈り」を偶然もらったり…この道がわたしの前に準備されていることを確信して、もう逃げられないという気持ちになっていったように思います。そして最終的にそれを決定的にする体験がありました。聖母の園に行って「イエス様、私へのあなたの望みを示してください!」と祈って聖書を開いたら、使徒言行録22章の「行きなさい。私があなたを遠く異邦人のもとに遣わす。」という箇所が突然目に飛び込んできて、思わず全身で「はい」と応えてしまったんです。それは雷に打たれたような衝撃的な体験でしたが、言葉に表せない深い喜びと感動がありました。そのあとで、両親と洗礼の時にした約束のことやその他色々な現実の困難もあれこれ浮かんできたのですが、「神様が私にこの道を望んでいるなら、神様ご自身がすべて良くしてくださるはず。」と確信しました。しかし家族はもちろん大反対で、父からは「結婚しても信者として幸せになれるだろうし、子育てが終わってから修道院にはいれば両方経験できるだろう!」と言われ、母からも「親戚や世間に顔向けできない。」と嘆かれ、ついにはそれがもとで母は寝伏してしまいました。父からは約束を破った親不孝者は勘当だ、と言われましたが、何とか説得しようとFMMがしていた事業のことなどを説明したら、弟からは「修道会ってそんなことが本来の目的ではないだろう?」と言われ、かえって私の方 がハッとしたことなどをよく覚えています。
それからとにかく両親のために祈り続けていましたが、ある時父が病の床にある母の枕元に私を呼び、「戸籍は?お墓は?」など質問し、最後に父が母に向かって「直子のことは許そう。」と言ったんです。それは不思議にもその前晩に見た夢と同じ台詞だったのですごくびっくりし、神様の応えだとますます確信し、神様と両親に感謝しました。その後、私が入会してからは、家族揃って修練院を訪れ、実際に目にして安心してくれたようでした。結局それから私の着衣式にも参列してくれて、派遣先の地にも両親揃って訪ねてきたりと、少しずつ姿勢が変えられてきました。

*  今振り返ってみて思うことは?

こうして自分の召命の軌跡を振り返ってみると、自分の生き方や方向が見えなくなったり、不安になったときは、自分の思いや意思を神様にありのまま伝えた上で、神様が私に何を望んでいるのかを聴こうとすることが一番大切だと思いますね。私の選びや考えに捉われずに、神様の思いを見せてほしいという心を私の中に起こしてください、と祈ることも…。神様はその祈りに応えて、いろんな関わりをとおして私を今日まで導いてきてくださったと確信していますし、その恵みとたくさんの出逢いを心から感謝しています。