1900年の訪問で M.マドレヌ・ド・パジは、修道生活を望んで長崎地方から働きに来ていた若い女性たちのために、創立者の要望に応えてアグレジェ(補助会員)の志願院を開きました。その大半が旧信者の子孫で、ハンセン病者を愛した聖フランシスコの生き方に心惹かれて親の反対を押し切ってまでも来ていた信徒でした。当初、中国や日本のような宣教地の人たちが正会員になる道はアグレジェになることでした。その人数も次第に増えていきました。
1901年 (明治34年) はその実りの年です。一つは、6月に2人がアグレジェの志願院に入り、日本人の志願者の養成が正式に開始されたこと、もう一つは10月に待望の新しい病院が完成し、11月には中尾丸から琵琶崎へ移動したことです。 コ-ル師はこの新しい病院を「待労院」と名付けました。その意味は「重荷を負っている者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう」という聖書の言葉にあります。
10月23日、新築された病院の祝別式と感謝の祭儀がコ-ル師と有安師の共同のもとにクザン司教によって行われました。式に参列した大勢の教会と修道会の関係者に見守られながら最初に来日した2名の若いシスタ-が新しい病院の聖堂で終生誓願を宣立し、教会共同体の家族的な喜びのうちに待労院が始まりました。日本の宣教地で本会の終生誓願式を初めて司式したクザン司教も司祭たちも、それを目の当たりにした患者や地域の人たちも、みな興奮気味でした。司教が説教の中で話した日本26聖人殉教者の深い信仰と愛のあかしは、患者や若い女性だけでなく 招待客の心にも 強く響いたのでした。
それから一週間後、土地の有力者を招いて公式に落成式と祝賀会が開かれ、これに同席したコ-ル師、深堀師、有安師が式後に新しい建物の案内役を務めました。この日の波紋は 思いがけない形で広がっていきました。これまで「ライ事業」に理解を示さなかった熊本県知事、県の財政係、陸軍や警察の関係者、一般病院の医師などが臨席してこの事業に厚意を示すようになりました。また、その2日後には、知事夫人が著名な婦人を20名ほど伴ってこの病院を訪れ、外国人の若いシスタ-たちが患者の世話をしているのを実際に見てこの事業に深い関心を示しました。その数日後には役人が来て 落成式の日に受けた暖かいもてなしに感謝の意を示し、地元の新聞に落成式の記事を載せたことを報告して帰りました。これらのことは、シスタ-たちが地域社会に受け入れられたことを意味していました。実際、4年前と比べると 全ての状況が大きく変わりました。「来日当初は 折あるごとに 近所の人だけでなく警察や役人もシスタ-たちを困らせてばかりいましたが、今はフランスにいるような錯覚が起きるほど 村人と親しくなり、聖体祭儀やキリスト教の勉強に来る人も増えています。お寺とお坊さんがいなかったら 自分の国にいるのではないかと思うぐらいです。」と、コロンブ院長は会長に報告しています。
11月4日、患者たちは中尾丸から琵琶崎へ移動し、待労院での新しい生活を始めました。広々とした病室の中央に設けられた聖母像、清潔なベッドとフワフワの布団、患者たちは子供のように「まるで天国にいるみたいと大はしゃぎ」と、院長は司教に報告しています。この病院の誕生がどれほど難産であったかを知っていた患者たちはコ-ル師やシスタ-たちに全身で感謝の気持を表わしたのでした。コ-ル師が中尾丸施療院で使っていた「憩いの家」という名称を、「重荷を負っている者は 私のもとに来なさい。休ませてあげよう」という意味の「待労院」と変えたことでも分かるように、修道院のあるこの土地には この頃すでに 孤児や患者の子供たちを収容する簡単な施設が作られていました。こうして、計らずも、コ-ル師が「重荷を負っている者」のために最初に購入した琵琶崎の土地に、中尾丸施療所の移転によって、孤児や子どもに加えて患者たちもシスタ-たちと同じ敷地で暮らすことになりました。
待労院が修道院のそばに建てられたおかげで、シスタ-たちは毎日15分歩いて中尾丸へ通勤する必要もなくなり、仕事も簡素化されて非常に働きやすくなりましたが、これまでの中尾丸施療院が一般診療所と要理学校に使用されたこともあって仕事は増えるばかりでした。
新しい派遣の受け入れを待ち望みつつ 人手不足の過酷な労働に明け暮れていたこの小さな共同体に喜びの日が訪れたのは11月25日のことです。この日、創立者によって3名の新しいメンバ-がフランスから派遣されてきました。