5月の第2日曜日は「母の日」。母は数年前に電話の通じない世界へ行ってしまった。寂しい。
私が生まれたのは終戦前。母は「防空壕でお産をしなければならないかと思っていたけど、畳の上でできたのよ。」とよく言っていた。畳の上で出産はできたものの、防空壕に逃げ込んだりと、危機は続いた。さらに半年も経たないうちに空襲にあった。街の中にいるより田舎へ逃げた方が安全だろうということで、母は背中に生後半年の私をおんぶし、自転車の後ろの荷台に病身の姑、前に私より2歳年上の長女を乗せて、自転車を押して逃げたという。少し出遅れたのか、途中で空襲にあってしまい、焼夷弾がバンバン落ちてきて、辺りは火の海になった。自転車を押して、なんとか火の海の中を進んで行ったが、ついに先に進めなくなってしまった。「ここで焼け死ぬより、家で死んだ方がましだ」と思い引き返した。しかし、さっき通れたところがもう火の海で、どこにもすきまがなかった。母は無我夢中だった。どのようにして火の海を突破したのか覚えていないという。何とか逃げ切って家に戻ってみると、家は焼けずに残っていたという。私たちも皆、やけどもせずに無事だった。
母は何と強く、頼もしいのだろう。この母がいなければ、私も姉ももうこの世にはいなかった。母は強いだけではなく、温かい人だった。その母が家族を温かく包み続けてくれたから、今の私たちがある。「お母さん、いつかまた天国で会いましょうね。それまで元気にしていてください。」