開墾から始まった「聖母の園」の生活
当時、神奈川県鎌倉郡大正村と呼ばれていた聖母の園の土地は簡単な鉄条網が周囲に張り巡らされた雑草地でした。この場所は戸塚、藤沢、大船の3つの駅の中心に位置し、どの駅からもバスが走っていて誰かが道端で手を挙げて合図をすれば、バスはどこにでも止まって客を乗せてくれました。しかし姉妹たちはフランシスコの娘にふさわしく、大抵ク-ロンフランシスケンを唱えながら徒歩で往復しました。引越し後、修練者たちが先ず着手しなければならなかったことは草とり、開墾、畑を耕し、道路を造ることでした。開墾のために東京からドミニカ(有安トキ)アグレジェの応援を受け、M.ネラ(M.Threse Etchebert)、M.レオナルド(森山サヨ)、M.ナタリア(山本アサノ)の指導のもとに 畑の整地が行われました。修練者たちがまるで「トラピスト修道士」のように、汗と泥にまみれながら重労働しているのを見て、職人たちは「シスタ-ってあんなに働くの?」と、あっけにとられていたと言われます。有難いことに、広大な雑草地に残っていた畑から拾い集めた馬鈴薯が日々の糧となりました。
9月17日に祝別された一階の聖堂で、戸塚で初めての有期誓願式がシャンボン大司教司式のもとに行われ、その翌日に2名の新しいポスチュラントを迎えて修練院はますます活気づいてきました。26日は宣教の活力を聖体から汲み取るFMMの生活に最も大切な日となりました。修練者が「顕示された聖体」の前で終日礼拝する恵みの大きさを実感したからです。こうして聖体を中心に大きな喜びを味わいつつ、修練者たちは一層熱心に修練に励みました。畠の仕事にも慣れ、院内の仕事も順調な滑り出しを見せ、落ち着いた修練生活を送れるようになりました。この一人ひとりを世話する善き牧者の家も10月に完成し、それまで毎日横浜から通っていた修道院付司祭のルモアン師が4日からそこに常住するようになりました。また、司祭館の横には司祭の生活を世話する夫婦の住む日本家屋もできあがり、11月末までに何もかも整いました。
農作業を本格的に開始したのは9月に熊本からM.アントニオ(山田コノ)が畑の主任として派遣されてきた時からでした。最初に、東京と熊本から手伝いにかけつけてきた姉妹たちと、牛を連れて手伝いにやって来た近所のお百姓さんの応援で種まきから始まりました。管区長のM.ピエ-ルと副管区長のM.マグダラは土地捜しから購入、建築、農耕のすべてに亘って修練者たちにも実情を知らせて祈りを願い、受けた恵みを分かち合ってきました。その功あって畑には14種類以上の野菜が栽培されるようになり、耕地が広がるにつれて馬、乳牛、豚、鶏、山羊、兎など家畜の飼育も始まり、果樹も季節毎に植えられていきました。また、門や庭園も造られていきました。11月に熊本から応援に駆けつけて来たM.バジリアン(M.Therese Buron)は近所の牛舎を見学し、獣医と相談しながら馬、子豚、乳牛などを入手して牛舎、豚舎、養鶏場などを造り、畠と家畜の指導に当たりました。近所の農夫たちの協力もあって、12月の声が聞こえる頃には一面雑草が茂っていた荒れ野が見違えるほど豊かな農場と牧場に変身しました。
宣教の面でも夢の実現にそれほど時間はかかりませんでした。というのは、姉妹たちが外出すると、その姿を見て子どもも大人も好奇心から近づいて来たからです。頭に腫物ができている子どもに薬を塗ってあげたことから、近所の人が薬をもらいに修練院に来るようになり、それがきっかけで修練院の小さな部屋に診療所がつくられました。また道中、結核患者のいる家を見つけたことから定期的に病人訪問が始まり、求道者から声をかけられたことをきっかけに公教要理のクラスが開かれるようになたのです。