麹町からの移転
1937年(昭和12年)3月20日、修練院の定礎式が神奈川県鎌倉郡大正村でシャンボン大司教によって行われました。しかし、世界恐慌のあおりで一層深刻になった資金不足のために建築工事が中断されるという事態に度々追い込まれました。それでも修練者たちは、一層「聖体の聖母」に信頼しつつ建築の続行を熱心に祈り続け、ロ-マからの資金援助でこの苦境を乗り越えることができました。8月16日、戸塚の家が未完成のまま麹町の家の借用期限が切れたため、引っ越しが始まりました。2年間共に過ごした麹町の教会と別れの時がきました。教会を代表して、主任司祭の田口神父は一同に感謝の言葉を述べ、新しい修練院のために「幼子イエスを抱いたマリア」の美しい絵を贈りました。信徒は別れを惜しんで口々に言いました。「シスタ-たちがいらっしゃらなくなれば、教会はどんなに寂しくなるでしょう。ご聖体が顕示されなくなるのですもの。とても悲しいわ」「顕示されたご聖体の前で膝まずいて祈るのがとっても嬉しかった」「これから誰が美しい花で祭壇を飾ってくださるのかしら?」
引越し作業は聖母病院のトラック3台で2日がかりで行われました。修練者は4グル-プに分かれ汽車に揺られて戸塚駅へ。そして昔、大名行列のあった松並木の東海道をバスで走り抜け、簡単な鉄条網で張り巡らされた広大な空き地に建っている一軒家に着きました。ノビスとポスチュラントは富士山が一望できる美しい土地に新築された赤い屋根の修練院を見て「これが本当に私たちの家?」と信じられないといった表情で喜びをかみしめました。「聖体の聖母」に捧げられたこの修練院は「聖母の園」と名付けられました。当時、大正村は無医村で電話が役場に一台あるだけの小さな村でした。すぐ近くに小学校はありましたが、商店一つない緑に包まれた田園風の静かな村で、土地の人々は植木業や農業で生活していました。一面畑と牧草地と森に囲まれた2万5千坪の畑地、そこが管区の若い修練者に約束されていた聖母の園でした。沢山の障害物を乗り越えながら管区あげて祈り求めてきた夢の実現に、感謝と喜びが管区中に広がっていきました。こうして5人の姉妹と16名の修練者、2名の志願者が新しい「養成の家」で歩みを始めたのです。
8月18日、管区長の望み通り、創立者の保護者・聖ヘレナを記念するこの日に ママン・パシオンの娘たちが育つ「聖母の園」修練院の初ミサが2階の仮聖堂であげられました。祭壇には 修練者が近くの森から摘んできた野の草花が飾られ、澄みきった青空に富士山が美しくそびえていました。シャンボン大司教は「聖母の園が祈りと礼拝のセンタ-となって、ここから国中に神の祝福と恵みが広がっていくように」と述べ、特に東京大司教区からの分離独立を3か月後に控えている「横浜教区新設」への思いを熱く語りました。日本の社会は既に超国家主義と軍国主義の時代に突入し、日本政府の強い圧力で、カトリック教会は日本の教会を代表する東京大司教区の大司教に日本人の土井辰雄師をあげ、前任者のシャンボン大司教を「大司教」のまま新設される横浜司教区の初代司教に任命したのでした。摂理的にも聖母の園修練院が開設されたこの年は、横浜司教区新設の年にあたっていました。それ以来、偉大な宣教師のシャンボン大司教がこの世の旅を終えるまで修練者の「善い牧者」として歩みを共にされるとは誰が予想していたでしょうか。