マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み-68

の創設 

1935年(昭和10年)12月28日、最初の契約が結ばれたこの日、6名が管区長たちに見送られて聖ヨゼフに献げられた横浜修道院の創設に向かいました。2人の日本人看護婦も連れて、横浜に到着した一行は、関東大震災で壊れかかっていた病院の職員寮を仮の住まいとして、病院新築の日まで生活することになりました。院長のM.ロベルトは日誌の最初のペ-ジにこう書いています。

汽車で30分、バスに乗り換えて15分、丘を上り、新しい住まいに着く。天気は良くない。雪がちらつき、太陽なし。でも私たちのポケットには太陽が一杯つまっている。日本に「主のお住い」がまた一つ増えた。ということは、イエスの栄光を少し大きくすることができたということではないだろうか?日本でイエスは殆ど知られていない。

そして、シャンボン大司教によって初ミサがささげられた12月31日の日誌には「太陽であるイエスの光が聖ヨゼフ修道院を明るく照らし出した。シャンボン大司教は本会が横浜小教区にまで使徒的活動の分野を広げたことを非常に喜んでおられた」と書かれています。

この共同体は、一年半を過ごしたこの建物でも、また山手に新築された病院の建物でも、常に聖体を中心に使徒職に励むことができましたが、本会以外の病院で働くFMMの悩みのタネは、避妊と堕胎の問題でした。病院の経営者である「国際病院委員会」から病院内部の管理と看護の責任を委託されていた姉妹たちの誠実な仕事ぶりは委員会から全面的な信頼を得ていました。

看護の分野でも、1936年(昭和11年)に発布された布教聖省の教令によって、宣教修道女にも助産婦の仕事が許されたこともあって3年後の契約更新も無事終わりましたが、その次の更新にあたって問題が表面化したのです。それは、あるドクタ-が姉妹たちに対する誹謗中傷を委員会に告げた形で表れました。姉妹たちの看護能力を疑問視したのです。委員会は十分調査せずに彼の不平を無視してしまうわけにもいかず、不平を書き連ねた医者の手紙をメリ・オブ・ジザスに渡しました。副管区長M.マグダラは、調査の結果、実情を把握して委員会にこう返答しました。「もうこれ以上、このようなドクタ-と一緒に仕事をするのは不可能です。彼が病院を辞めない限り私たちは続けていけません。彼が辞めないなら私たちが引き上げるしかないと決めました」と。委員会も、問題はすべて彼の方にあると結論づけ、当時者同士の話合いで避妊と堕胎に関する条項をそのまま残して、3回目の更新も終了しました。聖母病院は、避妊や堕胎に対して看護教育の必要性を感じ、それから半年後に付属助産婦学校を開きました。このように変動する社会の中で、横浜修道院は管区のみならず、社会にとっても教会にとっても大切な存在となっていったのです。