それから二週間後、フランシスコ会第三会員の聖エリザベトの祝日を迎えました。周囲の反対や拒絶に遭遇しながらもハンセン病者を母親のように労り彼らの友となった聖エリザベトに倣い、シスタ-たちは患者のもとへ行かずにはいられませんでした。喜び勇んで施療院へ行ってみると、驚いたことに患者の誰もが治療を受けようとシスタ-たちのもとに集まってきたのです。治療を済ませ「明日も来る」と約束すると、誰もが喜びの表情を浮かべました。これまで人生で苦い経験ばかりしてきた患者たちにとって修道女といえども 信じられない存在だったのです。それが一変してシスタ-たちを看護婦として認めるようになっていました。それ以来、中尾丸へ行って患者の足を洗い包帯を交換するのがシスタ-たちの日課となりました。患者だけでなく、ここに来る部落の人たちにも看護の手を差し伸べ、宿屋も一軒一軒 訪問して彼らの足を洗い傷の手当てをしました。特に、身体的な病気を上回る道徳的な退廃が見られる宿屋では悪臭にまみれた汚いムシロに跪いて傷の手当てをし、その言葉の一言一言に耳を傾けました 。
このように最初は冷淡でけんか腰に反抗していた患者たちが自ら進んで治療を受けるようになるまで1か月位かかっています。くじけそうなシスタ-たちを奮い立たせたのは「フランシスコの精神であった」と、日誌に記されています。しかし、足を洗うたらいもピンセットも包帯も薬もない貧しさに、コロンブ院長は ヨ-ロッパにある修道院に手紙を書き、古い布でも包帯代わりに使えるものがあったら送ってほしいと願っています。このような経済的援助に支えられて、薬も事欠くことなく入手し、衛生と清潔さを保つために必要な品々も徐々に備えられていきました。
11月30日はコ-ル師が 事実上この事業をFMMに譲渡した日とされています。戸惑うシスタ-たちを勇気づけるために、コ-ル師は日本最初のハンセン病院「神山復生院」の院長である同僚のヨセフ・ベルトラム師を招き、復生院の実状やハンセン病について話を聞く機会をつくりました。それ以来、シスタ-たちは事業に問題が起こる度に神山復生院の院長に相談しながら 幾つもの困難を乗り越えていきました。来日した最初の年は共同体の生活を築き、言葉を学び、地域の人と顔なじみになり、熊本市や軍の当局者を訪問し、病人の看護を学ぶことで明け暮れました。最大の喜びはハンセン病者の友になれたことで、コ-ル師はシスタ-たちを慕っている患者の様子を驚きの目で見ていました。
1898年のパリ外国宣教会年次報告書には次のように記されています。「本妙寺にあるライ事業はイエス・キリストの友である最も大きな苦しみのなかにある見捨てられた人々への奉仕に呼ばれ それに応えてくれたマリアの宣教者フランシスコ修道会のおかげで 新しい時代に入った。」(1898年のパリ外国宣教会年次報告書より)