日本の参戦と在日外国人に対する政府の処遇-②
抑留された姉妹たちについて語る前に、まず1994年11月30日発行の東京新聞に掲載された抑留者の体験をここに転載し、いわば 戦後50年が過ぎて時効となったと思われる歴史的出来事の全体像に目を留めたいと思います。この記事によると、内務省警保局が伝えている抑留者数は、開戦時の1941年(昭和16年)12月には13国籍342名、その後次第に増加し、1944年(昭和19年)5月には626名ですが、この中にはカトリック教会の司祭や修道者だけでなく、外交官、一般の人、プロテスタント教会の抑留者も含まれています。カトリック中央協議会の資料によると、そのうち303名がカトリックの抑留者でした。外務省の管轄下におかれていた外国人、とりわけ抑留者の待遇改善や釈放に関しては、駐日ロ-マ教皇使節マレラ大司教や各国の駐日大使の外務省への働きかけがあったにもかかわらず、「日本天主公教教団」を取り締まる文部省宗教局が軍部の強い影響を受けて益々監視と統制を強化していったのです。
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1994年11月30日発行の東京新聞の切り抜き(開戦から終戦までの4年間近く、長崎と神戸の収容所に抑留されていたカナダ国籍の修道士シマル・カリキストの抑留体験より)

当時のFMM日本管区の実態については、日本の参戦から終戦までの期間に日誌を記録していた修道院が少ないために余り詳しく知ることはできませんが、M.マグダラの抑留中に管区を守った東京修道院の副院長M.サン・ディエル、戸塚修道院の院長M.メルセデス、横浜修道院の院長M.ロベルタが記録した3修道院の日誌から幾分知ることができます。また、抑留中の姉妹たちの生活については、残されている「抑留所からの手紙」を通して、当時の様子を垣間見ることができます。これらの手紙は抑留所を訪問した姉妹たちに密かに手渡され、それを管区のジャ-ナリストのM.シャロットがタイプでコピ-して各共同体に届けられました。ロ-マとの通信も、わずかながら大使館、教会、修道会などを通して行われていましたが、そのなかには2年後にようやく届けられたものもありました。