マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

神様の水路

『パパは心の病気だった。仕事も辞めて、ずっと家にいたので、ボクはいつもパパと一緒。ママが仕事に行っているときも、パパは側にいてくれた。だからパパがお薬をたくさん飲んで少し眠そうでも、ボクはパパのことが大好きだった。ある日、パパとママは離婚した。ボクにはなぜかわからなかったけど、パパと一緒にいられなくなるのは悲しかった。でもケンカはしてないみたい。ママはボクがパパに会いたいと言うと、パパに電話して会いに連れていってくれた。その日もパパに電話した。でも、何度かけてもパパは出なかった。ママとボクが心配になって家まで行ったら、電気がついていてパパは床に倒れていた。死んじゃったって、ママから聞いた。ボクのせい? ボクがパパに会いたいって言ったから、パパは死んじゃったの? ママ、おしえて! どうしてパパは死んじゃったの? どうして?』

こんな「ボク」と出会ったとき、私はかける言葉を知りません。
こんな「ママ」と出会ったとき、私は励ます言葉を持ちません。

どんな支援ができるだろうかと思い巡らしても、このとき必要だったのは、ただただ心の叫びに耳を傾けて、私の不用意な言葉が、その叫びをかき消すことのないように寄り添うことだけでした。それは私の祈りです。彼らの存在が私の心に場所を求めていたからです。

福祉の現場が「福音の場」となり得るために必要なのは祈りです。私にとって、祈ることは愛すること。愛することは「神様の水路」となることです。そんな宣教の使命を託されていると感じながら、日々、助けを必要とする子どもや家族と向き合っています。

(Sr. A.T)