* 創設時の姉妹たち:Sr.山浦セツ Sr.大橋登美子 Sr.大西節子 Sr.竹内文子 Sr.渡辺文恵
亀田修道院創設のいきさつは、当時の管区長 Sr.フランソワ・レミが、新潟教区の伊藤司教様から懇願されて、1964年の新潟地震で損壊したカトリック幼稚園の古い建物を購入したことが始まりでした。1階を保育園「平和の園」として、主任司祭の野田神父さまが住んでおられた2階を修道院として使用し、5人の姉妹たちが集められました。
創設から1ヶ月くらいは、Sr.フランソワ・レミが一緒に生活してくださり、開園準備で床磨きと掃除に忙しい自分たちに代わって、一部屋をカーテンで仕切って二人住めるようにしたり、シーツでテーブルクロスを縫ったりなど、あれこれ働いて下さいましたが、あまり慣れない買い物や食事作りなどでは、近所の八百屋さんで玉子を1個だけ買うのに、2つ手に持って重さを量ってから選ぶ始末で…その後あちこちで近所の人に頭を下げて回るのが大変でした。天ぷらを揚げた油を熱いまま一升瓶に入れて瓶が破裂し、後片付けが大変だったのもよく覚えています。最初はそんな感じで、とにかくみんな目まぐるしく働きました!その後保育園に給食のおばさんが来てくださるようになり、共同体の分も作ってくださったので、私たちもひもじい思いから解放されました。
当時は町の人口も増え、共働きの家庭も多くなっていったので、保育園の創設は役場関係の人達からは歓迎されていたようです。開園式には町長はじめ町役場のお偉方が何人も参列されることになり、急遽テーブル代わりの飛び箱にシーツをかけたりもしました。またそういった参列者たちに持たせる、お土産の折詰の準備などをめぐっては、フランス人の Sr.フランソワ・レミは「そんなことは必要ない!」、園長のSr.山浦は「それではここで通用しない!」とぶつかっていたのを覚えています。
保育園の方は、初めは野田神父様が集めておいてくださった約30人の子どもたちがいましたが、その後も子どもたちをつなぎとめるために、玩具をあちこちから送ってもらって、玄関などの見えるところに置き、子どもたちが喜ぶようにあれこれ工夫しました。そうしていくうちに、田舎にはまだ物珍しかったモンテッソーリ教育や Sr.竹内の献身的な子どもたちの世話で、次第に存在が認められ、良い評価をいただくようになりました。その結果、役場からどんどん子どもたちが送られてくるようになり、新築された教会の幼稚園より増えてしまうぐらいでした。Sr.大西節子、Sr.渡辺文恵は、新潟市がしていた身体障碍者の機能訓練所に勤め、家庭訪問なども積極的に行って喜ばれていました。