~遠く地の果てまで、地平線の向こうへ~
この一年間を振り返って、新しい出会いによって自分自身が変えられてきていることを感じています。この土地に育まれた人々との出会いは、風土と歴史からの様々な影響によって培われてきたもの、またそれぞれの人間性との触れ合いでした。容易に受け容れられるものと、受け入れ難く戸惑ってしまうもの、多様性を喜び受け入れていくことには痛みも伴うことだと思い知らされます。痛みを伴って、今まで知らなかった考え方、知らなかった感情、知らなかった思いと触れ合う時に、私の殻が少しずつ剥がされていくのだと感じています。『Living Our Name File1』の最後の方に、慣習法の記述が挙げられていました。
私は特に彼女たちが出来うる限り会則を守ることを勧めますが、『最大の苦行は共同生活だ』ということを思い出していただきたいと思います。このために彼女たちは恵みをいただくでしょう。もし召命にふさわしい労苦のさなかにあってそのように続けるならば、私たちの師父(※フランシスコ)は最高に苦行をされた方ですので、彼女たちをご自分の娘と認めてくださることでしょう。(同書p.106、慣習法1巻 No.63、規則書参照、※は筆者の加筆)
この記述があった章では、「『マリアの道』の中でフランシスコ的にキリストに従う『禁欲生活』の側面」(同書p.98)が扱われています。創立者の表現、たとえば「いけにえ」「自己滅却」などは「奉献」や「自分を与えること」などの言葉に置き換えられるということです。聖体礼拝、世界宣教、自己奉献の三つの領域にまたがるFMMのカリスマ全体の中で、いけにえの召命における苦しみは、自己否定、無所有、苦行という言葉からも理解することができそうです。しかし、苦しみは単なる苦行のお捧げに終わるものではなく、マリアのエッチェとフィアットにおける「神との、また兄弟姉妹との愛による相互の贈り物のよろこび」(同書p.100)に基づいたものらしいのです。自己否定は自己を捧げることが条件であると説明されています。捧げることは愛すること、交わりの喜びに結び付くものだと理解されます。
真の喜びは、自己保身や安楽安逸な生活の中にはない、過度の安全や安心の中にはないということでしょうか。自分を守ることよりも、目の前には見えない隠れた他者を守るために、抵抗や葛藤を引き受けていくことが求められているように思えます。自分自身が神さまの前に嘘偽りなくまっすぐに在ることを追求していくことで、自分以外のすべての兄弟姉妹も、またその人固有のその人らしさをまっすぐに生きることを認めることになるはずです。イエス・キリストの真理の光に照らされて、私たちは「何が本当のことか」と問いながら、真理を追い求めていきます。その中では、誤りや失敗、勘違いや間違いもあるでしょう。本当に正しいのは様様お一人ですけれども、私たちもまた弱さや醜さを抱えながらも「本当のこと」を求めていくように促されているのではないでしょうか。お互いに葛藤しながら削られ、磨かれ合って、脱皮していくことで身軽になれば、私たちは遠く地の果てまで、軽々と飛んでいくことができるようにイメージします。
(今回でこの連載は最後となります)
有期誓願者 M.O