マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本管区

前橋修道院の生活の分かち合い6ー待降節を振り返って

待降節は主の降誕を待ち望む日々を過ごしていました。コロナの為になかなかミサに与れない状況になってしまった私たちですが、それでも日々ご聖体から力を汲み、ご聖体によって生かされていることを忘れずにいたいと思います。そこから派遣されてそこに戻っていく…、聖体礼拝は、私たちの宣教者としての在り方の欠かすことのできない祈りであると教わり、大切な〈時〉、大切な〈場〉、大切な〈行為〉だと感じてきました。この礼拝行為に支えられて、祈りの心、奉仕の心が少しずつ育まれていると感じます。

日常の生活の中で、どうしても気持ちが不安定になり心が定まらなくなってしまうことが多く、自分自身の心身のアンバランスと向き合わざるを得ないのですが、そのような時にこそ、ご聖体の礼拝にどれだけ支えられているのかを実感します。この土地には、前橋修道院の聖堂、そしてあかつきの聖堂にご聖体が安置されています。ご聖体から力を汲んで日々出かける私たちが、イエス・キリストの運び手であることは、本当のことだと思います。たとえ、コロナの影響でご聖体を拝領できなくても、ご聖体を直に礼拝できなくても、キリスト者はこの秘跡に支えられています。教会が、そして本会が“ONE BODY”であるように、共同体もまた一つのからだであり、一人一人の姉妹がご聖体の前に身をかがめているのを見る時、やはり私たちは一つなのだという思いがしてくるのです。それは、私個人の弱さや至らなさから出てくる不機嫌や不安定、期待が外れたときの落胆や悲しみ、怒りを乗り越えようとする力になっています。共同体が“ONE BODY”だと信じないなら、イエス・キリストの運び手となることは難しいのかも知れません。一つのからだであるという感覚は、ただ単に甘く快い感覚とは違うのでしょう…、まだどこかで甘えた気持ちを持ち続けている自分に気が付かされます。

共同体の和室聖堂。毎日姉妹たちと祈ります。

『Living Our Name File1』の中にも、聖体礼拝について、その歴史と教会での実践が説明されています(pp.58-60参照)。そして、私たちの創立者、マリ・ド・ラ・パシオンが聖体礼拝を「相互の現存として見ていた」(p.62)と書かれています。この記述を読むと、ご聖体に現存するイエス・キリストを感じられないとき、私たちは自分自身の存在を感じることができていないと言い換えることができるようにも思いました。私たちの存在の根源的な基盤が神さまにあるのであれば、私が確かにここに居るという現実は、自分自身からは決して説明され得ず、神さまが私たちと共に在る、確かにここに居られるという感覚抜きには確信することができないでしょう。そして、その感覚は日々の祈りとみことばの理解、生活の実践のなかで少しずつ培われて、統合されていくものなのでしょう。それだからこそ、会憲は日々の聖体礼拝を私たちに義務付けているのだと思われます。聖体礼拝の日課によって、志願期から修練期、有期誓願期…初期養成の期間を経て、そのような感覚が育まれていると感じます。それは、瞬間的に雷に打たれたような神秘体験というよりは、粘り強くそこに在り続けることで体得していく対話の姿勢という感じです。

器である私たち一人一人の中に、いつも喜びがなみなみといっぱいに満ち続けているということはあり得ません。生涯、「空っぽ」であるという満たされない感覚のままであったとしても、ご聖体のキリストとの対話の姿勢を保つことができるのであれば、応えを待つ希望がそこにあります。対話は双方向のコミュニケーションです。ですから、応えが返ってこないように思われる状態が死ぬまで続いたとしても、キリストを信じる私たちには、希望があるということになります。神さまは私たちに語りかける方、必ず応えてくださる方だからです。希望は満たされていないから希望なのであると言うことも出来るかも知れません。もし実現したら、それはもはや「希望」とは呼べず、現実の「喜び」となります。本物の「喜び」を待ち望むこと、その姿勢自体に希望がいっぱい含まれているのだと思うのです。

(有期誓願者 M.O)