国際聖母病院の落成祝別式と開院式
東京大司教区の聖職者と信者が、6年もの長い間抱き続けてきた、カトリック病院実現の夢がかなえられる日が到来しました。1931年12月15日、無原罪の聖母の祝日8日目に、鉄筋コンクリ-ト3階建800坪の、内外ともに近代的設備を完備したエキゾチックな堂々とした病院が完成しました。カトリック・タイムスは「愛の溢れる国際聖母病院」との見出しで、落成式が「多数の名士参列の下に極めて盛大に行われた」と報じています。この日はフランシスコ会にとって特別に意義深い「元后マリア」の祝日です。M.クリゾストムは 近くで借家住まいをしていたフランスシスコ会の兄弟たちを招待し、東京でのフランシスカン宣教活動が順調に開始したことを共に喜び合いました。
午前中、パリ外国宣教会の司祭方や他修道会のシスターたち参加の下に、病院聖堂でシャンボン大司教による感謝のミサと院内の祝別式が行われ、午後には500名以上の招待客が病院を見学し、正面玄関前の広場で開かれた祝賀会に参列しました。屋上の見晴らしのよいバルコニーを舞台に、大司教の祝辞に続いて初代院長戸塚文卿師 、及び来賓の挨拶と本会の紹介があり、建設功労者に感謝状が贈られました。シャンボン大司教は パリ外国宣教会の年次報告の中で「カトリック信者たちはこの病院を誇りに思っています。多くの人が他では望めないような奉仕を受けるでしょう」と記しています。本会にとってもこの事業に特別な意味が込められていました。当時のアナール誌はこう伝えています。「帝都に相応しく、また愛の母であり学問の母であるカトリック教会に相応しいカトリック病院、使徒職の場となるだけでなく、物質主義や間違った考えに毒されている社会を正していくカトリック病院、そのような病院が必要とされているのではないでしょうか」と。本会も日本の教会と同様、この事業に大きな期待を寄せていたのです。
12月21日、いよいよ国際聖母病院の初日を迎え、院長の戸塚文卿師と女医のメリー・オブ・ジーザス(エレナ・ハ-ス)を含む7名の医師団、17名の本会会員、7名の看護士と補助看護士がフランシスコの精神のもとに「善きサマリア人」の理想を掲げて診療を開始しました。その一週間後に、M.クリゾストムは総会出席のためロ-マへ発ち、上海から派遣されて来たばかりのM.ド・メルシ (Marie. de Merci) がその後継者として修道院長に任命されました。姉妹たちは、フランシスコの精神を職員や患者に伝え、真のキリスト教精神に生かされた兄弟的な雰囲気の病院にするよう努め、職員には最初から専門的養成と人間としての養成を心がけ、信者または洗礼志願者の看護士には、臨終の患者に洗礼を授けることができるように援助しました。開設当初、患者といえば、在日外国人と宣教師、修道者や信者たちばかりで、一般患者は ごく少数しか来ませんでした。それは病院が市街地から遠く離れた所にあったことも理由の一つでしたが、やはり社会のキリスト教に対する偏見に根強いものがありました。それでも教会、特にフランシスコ会第三会の兄弟たちが、教会の新聞や雑誌に「国際聖母病院」を報道するに留まらず、勇敢にも医学雑誌「家庭醫事新報」や女性雑誌「主婦之友」などの報道機関にも働きかけ、情報を流しました。「愛と信仰に輝く看護婦さんの一日」と題して「カトリック修道女の祈りと愛の奉仕」を写真入りで紹介し、国際聖母病院の存在と精神を広く医療関係者や一般市民に印象付けたのです。このように日本の南と北と中央で活躍するFMMの存在は、日本中の教会に知られるようになりますが、特に本会は殉教迫害後、最初に日本へ上陸した女子のフランシスコ会員ということで、他の「フランシスケン」修道会の来日後も「フランシスケン」の名で呼ばれていました。