マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

有期誓願者のわかちあい 1

~周囲の方々、姉妹と共に暮らす、交わりに開かれた小さな共同体~

修道院内聖堂の床の間

前橋市粕川町は、県庁所在地の前橋から少し離れた、歴史のあるのどかな地域です。ですが、この地にもコロナの不安は広がっており、私の異動が「東京から」「公共の交通機関を使って」ということでしたので、到着後しばらくはこちらとしても多少の緊張がありました。しかし、その間にもこの家を訪ねてくださる色々な方々との出会いがあり、早くも、姉妹が多くの方々とここで共に生きていることを実感させられました。姉妹の温かい歓迎を受け、喜びのうちに過ごす毎日…。小さな共同体ですから、毎日何をするにしてもお互いをとても近くに感じます。その中で、心から開かれて、互いに委ね合って生活することの中に、小さなチャレンジの数々があり、また、それと同時に常に人々と、そして姉妹と常に共に居ることの喜びがあります。

イエスによって集められ、イエスによって生かされ、イエスによって結ばれていることを信じられなければ、決して成り立たない、ごまかしの利かない、人々との、姉妹との生活…、人と一緒にいればいるほど、自分の心に神さまの静謐な小部屋を確かに持っているのか、それを問われているように思いました。また、毎日の時間を「自分のもの」と思い込み、自分の思い通りのプランで動かそうとしている心の動きにも気が付かされます。自分で勝手に決めつけた予定に反することが起こると、心のどこかで焦ってしまうのです…。何一つ自分のものとしない無所有を生きる私たちであるのに、時間を差し出すこと、つまり、自分の今日のいのちを差し出すことを躊躇し、それを嫌っている自分がどこかにいます。

                            前橋修道院

本会のカリスマについて書かれた文書に、こんな一文がありました。「— 何が起こるかは全くわからないままに、1865年に彼女はインドのミッションに派遣されました。」(Sr.Ann de la Bouillerie, fmm 『Living Our name File1』p.6)これは、創立者について書かれた部分です。「何が起こるかは全くわからないままに」…これが派遣ということの一つの側面なのだと感じたからです。神さまに、他者に、委ねて生きること…本来、毎日の生活はいくらプランしても掌握しきれない、驚きとハプニングの連続であるはずです。プランは大切ですが、いつでも手放せる自由さを忘れないようにしたい、と感じます。驚きとハプニングを前に選択を迫られる時、ゆっくり考えている時間はありません。即座になされる決定の中で、一体自分は何を優先しているのだろうか?と反省させられることばかりです。

別の箇所には、聖家族の生活についての言及もありました。エジプトを横切る厳しい生活は、戦いと奮闘の生活であり、ナザレとの甘美な黙想の日々ではなかった…それでも「マリアはいつもご自分のうちに内的な生活をもっておられました。彼女はこれらのことを心に収めておられました。」(同書.p10)とあります。どちらも、自分の努力だけでは成し得ず、神さまの働きを願って祈り求めるしかありませんが、この小さな共同体に移り住んで、早速感じられたことが何であったかを確認することができ、〈派遣〉という生き方がどのようなことなのか、わずかながら感じ取ることができました。

           前庭のルルドの聖母子

改めて〈遣わされる者〉として生きてこられた先輩方の偉大さを思い知らされます。神さまといつも繋がって、語り合い、常に識別しているからこそ、神さまに明け渡して、他者のために生きておられるのでしょう。私には、委ねることが困難に感じられることが多々あるのですが、派遣を物理的にだけではなく、心から受け止め、周囲の方々、姉妹に開かれていきたいと思います。それが、神さまと真心から和解していくこと、自分自身の知らなかった姿を発見し、本来の自己性や、神さまが真に望まれた世界の輝きを、みんなで回復していくことに繋がるのでしょう。

有期誓願者  M.O