マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

Sr.クララ倉知香美の巻

Sr.クララ倉知香美

Sr.クララ倉知香美

Sr.クララ倉知香美の巻

*洗礼のきっかけは何でしたか?
私は北海道旭川の近くの東川町というところで生まれ育ち、受洗したのは30歳をすぎてから、きっかけは父の死でした。実は祖父母はカトリックの信者で、子どもの頃、家にはイエスとマリアの御絵なども飾られていましたし、今思えばきっと神父さまだったのでしょうが、大きな外国人の男性が時折祖父母を訪ねてきたのを覚えています。洗礼を受けていない母からも、「うちはキリスト教」と聞いていましたが、両親は教会に行くことはなく、私もそれを気に留めることなく育ちました。
それが、私が仕事のためにすでに家を離れていた時に、父が末期の癌とわかり、看病のために週末に実家に帰る生活になりました。日毎に衰え、確実に死に向かっていく父を見ながら、生まれて初めてほんとうに真剣に、死ぬこと、生きることについて考えた時だったと思います。当時私は仕事も順調で、とても安定した生活の中にありましたが、ほんとうに生命をかけて死に向かっている父の姿を見ながら、いま生命があって健康な私は、果たしてほんとうに「生きている」と言えるだろうか…と、疑問に思えたんです。その時から、それまでなかなかうまくいかなかった父とも、人生の最期に色々な事を話す事ができました。そして、約2ヶ月で帰天するまでの間、父に「病者の塗油」を授けるために来られたフランシスコ会の神父さまと出会い、その時初めて父が幼児洗礼を受けていたことを知りました。それから間もなく父は亡くなりましたが、なぜだかあまり寂しさを感じませんでしたね。そして、その後すぐに「教会に行こう」と思ったんです。生前父とは一言も教会や信仰について話したことはなかったけれど、いま振り返ると、父が最期の最後に自分の死をとおして私を導いてくれたんだと思っています。あの時に父をとおして新しいいのちをもらったような気がするんです。それからは教会に入り浸り状態!とにかく教会にいることが楽しくて大好きでした。そして半年後に受洗しました。

*修道生活を考えたのはなぜ?
「シスター」という人とはまったく縁もなかったので、はじめは修道生活など全然考えてもいなかったのですが、受洗してすごく燃えていたんでしょうねっ。とにかく色々な集いや研修会などに積極的に参加しているうちに、たまたまカトリック新聞に広告が出ていた「黙想会」というものに行ってみようと思ったんです。そして、はるばる北海道から行ったところが、戸塚の聖母の園。何もかも初めての体験でしたけれど、何だか違和感がなく、とても楽しかったのを覚えています。それから札幌にも修道院があること、そこでも集いをしていることを聞き、定期的に参加するようになりました。そしてだんだんとシスター達とも関わりが出来ていくうちに、シスターって普段はどんな生活をしているんだろう?見てみたい、知りたいという興味を持つようになったんだと思います。
この頃から平日でも毎朝ミサに通うようになりました。そしてついには「私もこの中で一緒に生きたい」と思うようになったのですが、それからが大変、ぐちゃぐちゃとずいぶん長い間悩みましたね。まずは年齢的にも若くはなかったので、いまの生活を捨ててしまって、もし修道生活が続かなかったらどうしようとか、シスターになったとして私にいったい何ができるのかとか、そして何よりも大きな悩みは母の反対でした。そこまでして?ほんとうに?違うんじゃない?と、2年以上あれこれぐるぐると悩んだ挙句、ある時「今までも自分なりに精一杯生きてきたんだから、これからの人生をまったく違う生き方に賭けてみよう。」と心が決まったんです。悩み過ぎた後で突き抜けちゃったみたいな感じで…。そして今でもはっきりと覚えているのですが、ほんとうに不思議な事にそう心に決めたとたんに、それまで関わってくれていたシスターから電話があったので、何も迷わずに「入会させてください!」と伝えました。電話を切った後では「言ってしまった〜」と少々うろたえましたけどねっ。でもそれ以後は大きな迷いはありませんでした。選んだ道をまっしぐらという感じかな。そして、ほんとうに幸せだと感じています。

*自分の将来の道について悩んでいる若い方達に何か一言。

Sr.クララ倉知香美

Sr.クララ倉知香美

私自身はいまだにまったく信仰うすい者だと思っていますが、今までの体験を通して、“神さまは絶対何とかしてくださる”ということには、ゆるがない確信があります。願い求めているのなら、神さまは必要な人、もの、etcを必ず与えてくださる。だから、まだ見えない何かを求めて、探しているのならば、どうぞ恐れずにそれらを受け取ってみてください。私は以前「あなたの口癖は“どうせ…”だわね。」と言われたことがありました。でも今自分自身を振り返ってみると、神さまに希望を置いた“楽観主義者”に、少しずつ変えられてきたような気がします。自分の限界も可能性もだんだんと受け入れやすくなってきたかなぁと。自分自身が少しずつ自由になってきていることを感じられるのはほんとうにうれしいことですし、そして何よりいま生きることが楽しいです!