マリアの宣教者フランシスコ修道会 日本セクター

FMM日本管区の歩み‐38

シャンボン東京大司教

シャンボン東京大司教

東京大司教区から国際病院設立の呼びかけを受けて

会長のMサン・ミッシェルのもとに届いた呼びかけのなかに、東京大司教区のシャンボン大司教と青年医師の戸塚文卿師のそれぞれから寄せられた国際病院設立の要請がありました。本会にとって第一次世界大戦後の苦しい経済事情の中で、新たに国際病院を建てることは大きな挑戦でした。今回は実現不可能と思われていた本会の国際病院が、国政の中心地であり日本の教会の中心地でもある東京の大司教区に新設されていった事の次第を教会の発展の中で見ていきたいと思います。

主のぶどう畑 ~国際都市東京~ 

東京も、キリスト教徒の迫害や殉教と無縁の存在ではありませんでした。1600年に関ケ原で大勝利を収めた徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸に幕府を開いて以来、300年以上も続いた徳川時代にキリシタンに対する弾圧が最も残酷に行われ、司祭不在のまま信仰を生き抜いた多くのキリシタンによって、東京でも主のぶどう畑が耕されていたのです。

東京での宣教活動が本格的に再開されたのは、日本代牧区が琵琶湖を境に南緯代牧区と北緯代牧区に分割されて、北緯代牧区の司教座が横浜から東京の外国人居留地があった築地の天主堂へ移された1876年(明治10年)頃のことでした。オズ-フ司教はここを宣教拠点として、東京、横浜、新潟、函館を中心に活動を広げました。天皇や諸外国の代表者が住む東京と国際貿易の中心地である横浜には、サン・モ-ル会とマリア会を、新潟と函館にはシャルトルの聖パウロ会を招きました。

信教の自由を保証した明治憲法が発布されて2年後の1891年(明治24年)、教区の再編成により4司教区が設置され、北緯代牧区は新潟・東北6県・北海道から成る函館司教区と、当時の布教聖省によって首都大司教座と定められた東京大司教区とに分割されました。引き続き初代の東京大司教に任命されたオズ-フ司教は、北緯代牧区の創設時から宣教目標としてきた「邦人司祭と伝道師の育成、青年の教育、異教徒の改心」を一層強化するため、更にシャルトルの聖パウロ会(1881年)、イエズス会と聖心会(1908年)を東京へ招き、教育事業に力を注ぎました。

そのおかげで、キリスト教は指導的立場にある人や知識階級にまで浸透し、多難な時代にあっても宣教の道が閉ざされることはありませんでした。それどころか政府による日露戦争や第一次世界大戦時の宗教教育の禁止や国家神道の強制などで教会が危機に遭遇した時も、また、反キリスト教思想によって信者や求道者の数が減少した時も、信者の知的社会的水準は上昇し続けました。なかには「ペンの使徒」として国際舞台に立って日本とロ-マ教会や諸国を結ぶ架け橋となり、反キリスト教運動に毒されている人々の偏見を取り除いた人もいました。特に文化の中心地・東京では、報道による僧侶たちの激しい憎悪や中傷に加えて、政府関係者や知識階級からの中傷も絶えませんでした。それなのに当時、教会にはそれに反論する出版物も皆無に等しかったのです。たとえ出版事業が開かれたとしても、資金難あるいは内務省の発売禁止のために活動が途絶えていました。それが1899年 (明治32年) になって漸くカトリック教会の出版活動も復活し始めました。

岩下壮一神父

昭和時代の幕開けは不景気に見舞われ、政治経済面では暗い序幕でしたが、文化生活面では相変わらず「西欧文化に追いつけ」の自由な雰囲気が保たれていました。一種のキリスト教ブームが起き、特に青年層と文化知識人層にキリスト教を求める動きが顕著になりました。教会がこのニードに応えて、神の国の発展のために青少年教育の必要性を強く意識したのもこの頃でした。

サン・モール会とシャルトルの聖パウロ会が東京で初めてカトリックの教育事業を開設していますが、いずれも語学専門の女学校ばかりでした。それは、政府が男子青年に対しては自分たちの手で教育し、特に軍国精神と天皇を神とする愛国精神とを植えつけたいとの考えから、なかなかカトリック教会に男子校の開設を認可しなかったためでした。カトリック教会がマリア会を招いて男子校を開設することに成功したのは1888年になってからです。

次に教会が目指したのはカトリック大学の創設で、これも教皇ピオ10世の要請に応えてイエズス会総長が1908年に聖心会修道女4名とイエズス会の会員3名の派遣を成功させています。カトリックの教育事業は、相変わらず政府の厳しい監視のもとに置かれてはいたものの、カトリック校で学んだ青年たちが、次第に国と社会の中心的な役割を果たすようになりました。特に外国宣教師から受けたキリスト教教育と西欧文化によって、青少年たちは、世界的視野と国際的感覚をもった人間に成長していきました。特に、注目されるのは「カトリック研究会」とフランシスコ会第三会の存在で、この会の推進者たちの自主活動によって多くの青年が教会に導かれていったのです。

聖フランシスコ帰天700年記念を迎えた1926年 (大正15年) 10月、日本の北と南で聖フランシスコの「小さき兄弟たち」がこの日を盛大に祝っている時、フランシスコ会の修道院が一つもない東京でも、聖フランシスコの愛好者たちが「聖フランシスコについて」の講演会を開き、700名以上の聴衆に感銘を与えていました。聖フランシスコの愛好者とは、東京教区の青年司祭、岩下壮一師と戸塚文卿師、海軍少将の山本信次郎氏と数名の東大教授で、その全員がフランシスコ会第三会の会員であり、マリア会経営の学校「暁星」で学んだ信仰の同志たちでした。摂理的にも、このメンバ-がフランシスコ会と本会を東京へ招くシャンボン大司教の良き協力者となっていったのです。

戸塚文卿神父

パリで叙階されたばかりの戸塚文卿師は、パリ外国宣教会の総長秘書として同じパリで働いていたシャンボン師に国際病院を東京に建ててくれるようFMMの会長に願ってほしいと頼んでいました。シャンボン師は、かつて函館教区のベルリオ-ズ司教のもとで司牧活動に献身し、再来日したフランシスコ会の兄弟たちを迎えて、北海道で宣教の労苦を共にしています。1920年より駐日教皇使節の秘書官としてロ-マと日本の橋渡し役を務め、その翌年パリ外国宣教会の総長秘書としてパリで働いていました。そこで東京大司教区の司教に任命されて司教叙階式を受け、東京に戻って司教着座式を終えると直ちに、この教区にカトリック病院を建てて真理と愛の教えを伝えてほしいと 本会を東京に招き、戸塚師との約束を果たしました。

シャンボン大司教が5代目の東京大司教として着座した1927年 (昭和2年) 12月、横浜・東京地区には未だ関東大震災の傷跡が残っていました。当時、カトリック社会事業といえば、女子修道会経営の養育院と個人または教会のグル-プが経営する小さな医院、診療所、老人ホ-ムでした。そして、社会に蔓延していた結核患者のために、司教補佐のフロ-ジャック師(Joseph Flaujac, M.E.P)が開いた結核療養所がその代表的なものでした。

このような状況下で、シャンボン大司教は 信徒の協力のもとに、本会を東京へ招き、「善きサマリア人」の精神をもって、国籍や宗教の区別なく最も助けを必要としている外国人に救いの手を差し伸べる国際病院の開設に着手しました。

1927年の統計によると、東京区内にある7つの教会で、年間の受洗者数は928名、信徒総数は6094名でした。( 関口-905名、神田-850名、麻布-1270名、築地-460名、本所-725名、大森-340名) なかでも、FMM東京修道院創設を支援した麻布教会から、優秀な青年司祭が次々と誕生していました。西欧で叙階式を終えて青年司祭として帰国した岩下壮一師と戸塚文卿師も、「ペンの使徒」として昭和初期の教会を担っていました。特に、カンドウ師のもとで進めていった執筆活動とカトリック研究会の指導が、宣教に新しい息吹を注いでいたのです。