札幌天使病院には、創設以来、親の入院や病死のために行き場のない子どもたちや、貧しい開拓民の子どもたちを引き取って世話をする場所がつくられていました。それが1923年に起きた関東大震災後に引き取った被災者の子どもたちの増加で、院内の狭い部屋から修道院の広い部屋へ、それでも収容しきれずに医師のために準備しておいた家に移転し、その家を「天使園」と名づけて、乳幼児から高校生までが共同生活を送っていました。ところが、この家も子どもたちの生活の場として適切であるかどうかが問われるようになりました。
既に述べた通り、札幌共同体は、キノルド司教の強力な支持のもとに、広島村の教会が建つ広い敷地に札幌修道院と天使病院の分院を開いたのに続いて今度は「天使園」を移転させる問題が浮上してきました。
札幌「天使園」の施設を広島村の教会用地へ移転させることが決定されたのは、1929年 ( 昭和4年 ) 6月に行われたMクリゾストム管区長の共同体訪問の時と思われます。移転の理由は、子どもの増加で場所が狭くなったこと、この施設が結核病棟や伝染病棟と同じ敷地内にあるので子どもの健康上望ましくないこと、そしてキノルド司教から広島村の教会用地を提供すると申し出があったことでした。
早くも9月には、広島村で建築工事が始まり、村の大工さんが自慢の腕を振るっていました。当時、札幌と広島村の事業を支えていたのは、Mヒアシンタ新院長と18名の外国籍のシスタ-、日本人として6名のオブラ-トと5名のアグレジェでした。それに オブラ-ト修練院では9名の修練者と2名の志願者が修練に励んでいました。
1930年 ( 昭和5年 ) 7月14日、広島天使病院の横に子どもの施設が新築落成し、その祝別式が行われました。宮殿のように大きいこの建物が札幌「天使園」の子どもたちの新しい住まいです。修道院の一室から始まったこの施設は、貧しい開拓民の孤児や行き場のない子どもたちの増加に伴い修道院から病院へ、更には、物置や牛小屋を改造した場所へと移動を繰り返してきましたが、キノルド師の寛大な協力により、新鮮な空気と緑に囲まれた広島村の「約束の地」に辿り着く日がやって来たのです。 38名の子どもたちの移動は2つのグル-プに分けて別々の日に行われました。 最初のグル-プは、祝別式の前日にMエンゲルハルダに伴われて車で移動した乳幼児20名で、次のグル-プは当分の間、札幌に残って修道院の世話を受けながら通学していた後続の就学児童のグル-プでした。最初に行われた小さな群れの移動はこの村にとって非常に珍しい出来事でした。村人たちは村をあげて歓迎し、子どもたちに菓子袋を配りました。オブラ-トの派遣で強化された新しい共同体は、病院や診療所から得られる僅かな収入と、キノルド司教の資金援助や青年や信徒の物的援助で、子どもの養育に献身することができました。これが、現在の北広島養護施設の前身でした。
その一か月後には、早くも 広島村のシスタ-たちは、隣の島松村の村長さんに招かれて、村の診療所として開かれた村長の自宅へ、 医師と共に 週に2日ほど医療奉仕に出かけるようになりました。