3・11が今年も訪れた。各地で鎮魂と再生への希望をこめて祈りが捧げられた。
ここ亘理でも、2時46分には、サイレンが鳴り響き、黙祷が捧げられた。
5年前のこの日。愛する人を亡くした悲しみ、痛み、絶望を語ることはあっても、喜びに触れる事はできるのだろうか。
美しい朝日とともに、この日が始まった。流された駅のロータリーでは亡くなられた人びとの数だけ、お地蔵さんが並べられ、次々と人びとがやってきては祈られる。やっと歩きはじめた子供も、杖をついたお年よりも、神道の宮司さんも、仏教のお坊さんも、そしてキリスト者も、宗教を越えて、すべてを越えて ひとつになって祈りが天にのぼっていく。
こめられた願いが黄色のハンカチにのせられて、風に翻る。手づくりの竹灯篭のなかで、光がゆらめき、祈りがたちのぼっていく。
まばゆい夕日の中で、3.11が過ぎていく。「あの日はもっと寒かった」と言って私の腕に、腕をくぐらせてこられたのは、ご主人を亡くされた仮設で出会った方だった。「もういい、じいちゃんが、いるところがわかったから」
十字架のむこうに復活がある。キリストの光が暗闇のなかでさんぜんと輝くことを信じていこう。
クーロンヌ・フランシスケン(フランシスコ会の7つの喜びのロザリオ)
第四の黙想 博士らの礼拝におけるマリアの喜び (イエスの光が世にあらわされた)(Sr.M.・U)