4月下旬に日本を出発してから、はや40日。私は今、マレーシア・シンガポール管区に宣教体験に来ています。Universal Mission(世界宣教)を使命とする私たちは、自分が生まれた国にいても、海外にいても「世界宣教」の一端を担うことに変わりはないのですが、海外宣教への夢を抱いて修道生活を歩み始めた私にとって、いただいたこの機会はよろこびの時。心の深い所で感謝とよろこびを噛みしめている毎日です。
この数週間はクアラルンプール郊外にある修道院を拠点に実習しています。難民の子どもたちの学習支援をしたり、若い人向けの集まりで召命体験をわかちあったり、病人訪問をしたり、小教区のお祈りグループに参加したり・・・。これから北上し、タイとの国境付近にある修道院へ行きます。そこでは住民の95%がイスラム教徒で、キリスト者はマイノリティとして暮らしています。
そんな毎日の中で一つの発見がありました。未知の国に来て複数の修道院を周り、文化や感覚の違いによってすれ違ったり失敗したりしているのですが、「違う場所」に来たという感じがしないのです。最初から日本国内で異動しているのと同じような感覚。日本でも新しい修道院に異動すれば、例えば食器の収納場所も違いますから覚えなおしますし、土地の慣習や暮らし方を学ぶところから始めます。ですから海外には来たものの、していることは基本的に同じ。政治や経済、文化や感性が違う分、新しく学ぶことの量や内容に差があるけれど、私の感覚として日本にいるのとそれほど変わらないのです。これは予想外のことでした。
ところ変われどもわが家なり。同じFMMの家だからこそ、世界のどこへ行っても違和感がないのでしょう。別の修道会に行けばたちまち「何だか違う所に来たぞ」という感覚に包まれるのですから、不思議なものです。この“感覚”も「神様が自分をどこに呼んでおられるか」を考える時の一つの目安になると思います。
世界宣教という使命を果たすため、神様が世界中に“わが家”を備えてくださっているとは、なんとありがたいことでしょうか。この神の慈しみに信頼し、いつでも、どこへでも出かけていくことができますように!
(Sr. T. H)